ラファエル・アルナイス・バロン
聖ラファエル・アルナイス・バロン (スペイン語:Rafael Arnaiz Barón、1911年4月9日 - 1938年4月26日) は、スペイン人のカトリック修道士[注釈 1]。カトリック教会の聖人で記念日は4月26日。 20世紀に生まれ、20世紀に死んだ聖人である。 聖ラファエル修道者は、修道名であるマリア・ラファエルで知られている。また、列聖前は、マリア・ラファエル・アルナイス・バロンとして列福されていた[1]。 生涯幼少時代ラファエル・アルナイス厳律シトー会(トラピスト会)修道士(本名ラファエル・アルトゥロ・アルバロ・ホセ・デ・インマクラーダ・コンセプシオン・イ・サンルイス・ゴンサガ・アルナイス・バロン Rafael Arturo Alvaro José de la Inmaculada Concepción y San Luis Gonzaga Arnaiz Barón)[注釈 2]は1911年4月9日の枝の主日に、スペインのブルゴスで、富裕な商人の一族である父ラファエル・アルナイスと貴族階級の家系である母メルセデス・バロン・デ・アルナイスの4人兄弟妹の長男として生まれた。 のちに、弟ルイス・フェルナンド、妹メルセデスは、兄ラファエルと同じ、修道士・修道女の道を歩む[2]。 父のラファエル・アルナイスは、裕福な山林技術者であった[3]。 母のメルセデス・バロンは、文筆家、時事評論家であり、彼女の兄はレオポルド・バロン・マケダ男爵(のちに父親の爵位を相続しマケダ伯爵。さらに公爵)である[4]。ラファエルは、伯父であるレオポルドを、ポリン伯父さんと呼び慕った[注釈 3]。 信心の面では、毎晩ロザリオの祈りを家族で行う、信仰深い家庭に育った。 几帳面で、なんでもきちんとしていないと気が済まず、なれなれしさを好まない性分であったが、召使たちは、彼から厳しい言葉を受けたことはないと回想する。 イエズス会が運営する、オビエドの学園においては、とんぼ返りが好きで、数学の成績が良く、勤勉で品行の良い、常にクラスの上位にいて、学内のシュチェパヌフのスタニスラウス(聖スタニスラオ)信心会の役員として、信心深い中学・高校生活を送った。 このころ、絵画を本格的に学び始め、ラファエルの生涯の趣味となる[6]。 1929年高校を卒業すると、伯父であるマケダ男爵家のアビラにある別荘に滞在し、厳律シトー会(トラピスト会)聖イシドロ修道院の修道士が歌うサルヴェ・レジーナに心を奪われ、修道会への入会を決心する[7]。 厳律シトー会入会1930年マドリッドの大学に入学し、建築学を専攻する。 幾何学の勉強に苦しみつつも、煙草を愛し、街中のレストランを知り尽くし、寮の友人と学生生活を謳歌したが、修道生活へのあこがれはやみがたく、1933年聖イシドロ・トラピスト修道院に入会を申請した。 これを知った、周囲の人々は、「あんなハンサムなのに、神様ももったいないことをする」と、評したという。 1934年1月修練院に入ることを許され、初誓願をたててマリア・ラファエルの名前を取り、修練者として、修道士への道を歩み始める[8]。 マリア・ラファエル修道士は、トラピストの戒律である「沈黙」を愛した。 しかし、彼の修道生活は、病による中断をたびたび繰り返し、その死まで、通算しても20か月に満たないものだった。 病による修道生活の中断入会までの彼の生活は、快活で健康にほとんど問題ないものであった。 しかし、入会から半年足らずで、若年性糖尿病と診断される。 当時としては、不治の病である。 1934年5月マリア・ラファエル修練者は、重体に陥り自宅に帰され、食事療法とインスリン注射による療養生活に入る。このときから、約1年半の闘病生活が始まる。病の中で、彼の神への感覚は、研ぎ澄まされる。親族への手紙の中で、彼はこう書いている。
1935年12月の手紙には、次のように記す。
1935年12月病状が回復すると、伯父レオポルドのアビラの別荘で静養に入ったが、そこから修道院への再入会を申請した。大修道院長に宛て、彼はこのように書いた。まるで近いうちに起きる死を見通したかのような内容である。
徴兵による修道生活の中断このころ、スペインは、内戦状態(スペイン内戦)にあった。 1936年9月マリア・ラファエルは、徴兵を受け修道院をあとにするが、身体検査で不合格となる。 彼は、最期の修道院への再入会を認められた。 修道院で、彼は「ノート」に、こう書き記した。
病状の悪化と霊性の高まり1937年1月マリア・ラファエル修練者の病状は再び悪化した。 修道者として働くことができず、終日病室において起居する日々が続く。 この中で、彼の霊性は極限にまで高められていく。 彼の内省の軌跡は、「私のノート」と題された一連の文書と伯父、両親への書簡に残されている。 聖者マリア・ラファエルの聖母マリアへの賛美とトマス・ア・ケンピスのキリストに倣いてへの省察は、病の中で着実に深められていった。 1937年2月マリア・ラファエルは、自宅に帰された。 アビラの自宅で、絵筆をとり、いくつかの作品を残しつつ、修道院への帰還を望んでいた。 1937年12月彼は、修道院に戻った。 すでにマリア・ラファエルは、病室で起居する身であった。1938年4月13日彼はこのように記している。
終焉マリア・ラファエルは、死の瞬間まで、トラピスト修道者でありたいと願っていた。 1938年4月復活祭に際して、大修道院長は、マリア・ラファエルに、修道士の身分の者だけが着用できる純白の修道服「ククラ」と黒いスカプラリオを与えた。 マリア・ラファエルは、歓喜してそれを受けた。一時は、病状が全快したかのように見えた。しかし、すぐに、彼は、その栄誉が、単なる虚栄をもたらすものでしかないことを、自ら認め、静かに最期の時を待った。 4月26日マリア・ラファエルの容体は急変し、彼は献身者の身分のまま、死亡した。臨終に際して、彼はこう遺した。
列聖マリア・ラファエルの短い生涯における、短期間に高められた、極めて透徹した霊性を世間に知らしめたのは、その母であるメルセデス・バロンの功績によるところが大きい。 彼女は、マリア・ラファエルの書簡集・ノートを遺稿集としてまとめ発行した。 彼女は、マリア・ラファエルと娘メルセデス、夫ラファエルに先立たれ、1957年に死亡した。 マリア・ラファエルが敬愛した伯父レオポルド・バロン・マケダ公爵は、彼の小伝を、『トラピストの秘密』として出版した。 彼の伝記と遺稿集は、各国語に翻訳され静かな感動を呼んだ。 便利で快適な都市生活を謳歌する典型的な現代の青年が、修道院の暖房器具もない木の固いベッドで生活し、一日中沈黙の戒律を守る生活を選び取るまでの軌跡、そして、不治の病の中で、ただひたすら神への賛美に生きる、その研ぎ澄まされた感覚と霊性は、そのこと自体が奇跡的ですらある。 その後、1960年代に、列聖運動がおこる。マリア・ラファエルのとりつぎとされる、いくつかの奇跡が報告され、ついに、 1992年9月27日にヨハネ・パウロ2世によって列福され、「今日のキリスト者青年の一つのモデル像」と紹介された[17]。その列福式の場には、実弟のフェルナンド(シャルトルーズ会修道士)の姿もあった。 2009年10月11日に、ベネディクト16世によって列聖された[18]。 列聖後の「聖ラファエル・アルナイス」は、糖尿病患者、世界青年の日、ワールドユースデーの守護聖人とされている。 聖イシドロ修道院は、2011年彼らの兄弟である聖人の生誕100周年を祝った。 脚注注釈出典
関連図書
関連項目動画(スペインのドキュメンタリ番組) 外部リンク |