ラト (古希 : Λατώ , Latṓ )は、古代ギリシア 、クレタ島 の古代都市である。ラトー とも表記される。その遺跡は現在ラシティ県 クリツァ (英語版 ) の小さな町から約3 kmに位置している。アレクサンドロス大王 に仕えたネアルコス はラトの出身である[ 1] 。
歴史
ドーリス人 の都市国家は都市のアクロポリス となった2つの山頂の間にミラベッロ湾 (英語版 ) を見下ろす防御可能な位置に建設された。都市の建設はおそらくドーリス人が到来した後期青銅器時代 以前に先立つと考えられているが、現在見つかっている遺跡は主に紀元前5世紀から4世紀頃のドーリス人の時代のものである[ 1] 。
この都市の名前はギリシア神話 のアポロン とアルテミス の母である女神レト にちなんで名づけられたと考えられ(ラトはレトのドーリス方言 )、クノッソス から発見された線文字B の粘土板 に RA-TO として言及されている可能性がある[ 1] [ 2] 。またラトでは古くから女神エイレイテュイア が崇拝されていたらしく、同地で発行された貨幣 にエイレイテュイアの肖像が描かれている[ 1] [ 2] 。
前3世紀末にラトはクレタ島の都市同盟に参加し、同じ法律を共有した。またラトはロドス島 、テオス 、ペルガモン のエウメネス1世 と同盟を結んだが、隣接する都市オロス (英語版 ) とは国境をめぐって継続的に対立していた[ 1] 。現在のアイオス・ニコラオス の近くにあるラト・プロス・カマラ (英語版 ) (Lato Etera あるいは単に Kamara)の遺跡はラトの外港としてドーリス人によって建設されたが、人々はむしろカマラに集中していき、やがてラトの政治機能はカマラに移され、最終的に前200年頃に放棄された。カマラはローマ 時代も使用されたが、これは後に混乱を招き、ビュザンティオンのステパノス (英語版 ) はクレタ島の歴史家ゼニオン(Zenion)を引用してラトとカマラは同一の都市であると繰り返し主張した。現在ではこの2つは明確に区別されている。考古学者フェデリコ・ハルブヘル (英語版 ) 、L・マリアーニ(L. Mariani)、アントニオ・タラメッリ (英語版 ) は遺跡を訪れてラトに特定した[ 3] 。
1894年から1896年にかけてアーサー・エヴァンズ が小規模な発掘調査を行ったのち、1899年から1901年にかけてアテネ・フランス学院 がジョセフ・デマルニュ (フランス語版 ) の指揮のもと体系的な発掘を行い、1968年にピエール・デュクレイ (フランス語版 ) 、オリヴィエ・ピカール (フランス語版 ) らによって再開され、1970年代まで続いた[ 3] 。
ギャラリー
ラトの都市の遺跡。
通りの階段
正門
都市の中央通り
古代劇場エリア
アポロン神殿
アポロン神殿
アポロン神殿
脚注
参考文献
この記事には現在パブリックドメイン である次の出版物からのテキストが含まれている: Smith, William , ed. (1854–1857). "Camara". Dictionary of Greek and Roman Geography . London: John Murray.
Martha W. Baldwin Bowsky, Portrait of a Polis: Lato Pros Kamara (Crete) in the Late Second Century B. C. , Hesperia , Vol.58, No.3 (July - September 1989), pp. 331–47
関連項目