ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
ヨハン・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(ドイツ語: Johann Salvator von Österreich-Toskana、1852年11月25日 - 1890年?)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。のち皇籍離脱してヨハン・オルト(Johann Orth)と名乗った。航海の旅に出て、南アメリカのホーン岬で遭難し、行方不明になった[1]。 生涯トスカーナ大公レオポルド2世とその妻である両シチリア王女マリア・アントニアとの間に、第十子(五男)として生まれた。 オーストリア皇太子ルドルフと親しく、プロイセン嫌いで、親ロシアの立場こそがハプスブルク君主国にとって望ましいとの考えを持っていた[2]。オーストリア=ハンガリー帝国の軍隊制度や教育制度、外交方針、さらには旧時代的な社会全般にも反発し、(才能豊かながらも)しばしば叱責を受けるハプスブルク家の問題児であった[2][1]。 出典参考文献関連書籍
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