ヤロウどもメロウどもOh!(- オー)は、かつてラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI = 日経ラジオ社)の月曜日から土曜日17:00-18:00の時間帯で放送されていたラジオ番組。通称ヤロメロ。
東京本社の公開放送用スタジオ、第0スタジオ(スタジオゼロ)からの生放送だった。
概要
1977年4月スタート。パーソナリティにはこの前番組『ギャングパーク』のパーソナリティでもあった大橋照子、柳志津男らで、第一期は1年間放送された。
1978年4月から2年間、16:00-18:00に放送されていた『ふれあいスタジオ』を経て、1980年4月から再び午後5時台は『ヤロウどもメロウどもOh!』のタイトルに。この時に毎週水曜日(のちに毎週木曜日)が大阪支社スタジオ発の放送となった。同時に、この番組よりも低い年齢層のリスナーを対象にした『ヤロメロジュニア出発進行!』が同じ第0スタジオの午後4時台にスタートし、この2番組を合わせて『ヤロメロワイド』とも称していた。なお、午後4時50分から10分間のニュースの間にパーソナリティは席を交替するようになっていた。
大橋照子と『ふれあいスタジオ』から加わった斉藤洋美、そして『ヤロメロジュニア』から小森まなみが加入して“たんぱ三人娘”が揃うことになり、この3人がヤロメロを支えてゆくことになる。
1983年3月に土曜日を除く各曜日が16:00-18:00の2時間で1番組の枠となり、タイトルも『日本全国ヤロメロどん!』となる。
パーソナリティ
第一期 (1977年4月-1978年3月)
第二期 (1980年4月-1983年3月)
月曜日
- まつやま亜紀 (1980年4月-1980年9月)
- 斉藤洋美 (1980年10月-1983年3月)[1]
火曜日
- 斉藤洋美 (1980年4月-1980年9月)
- 大橋照子 (1980年10月-1983年3月)[1]
水曜日
- みのわ香代子
- たつみなな ※ (1980年4月-1980年9月、この後木曜日へ移動)
- 小森まなみ (1980年10月-1983年3月、『ヤロメロジュニア』から移動)[1]
木曜日
- 大橋照子 (1980年4月-1980年9月)
- たつみなな ※ (1980年10月-1982年3月、水曜日から移動)[1]
- 村田いづみ ※ (1982年4月-1983年3月)
金曜日
- 斉藤洋美 (1980年4月-1983年3月)[1]
土曜日
- 大橋照子 (1980年4月-1983年3月)[1]
(※ - 大阪支社スタジオから放送していたパーソナリティ)
(大橋照子の産休時期には、岡本りん子や元・山口放送のアナウンサーであり、自身の兄嫁であった大橋美紀子が代理を務めた)
主なコーナー
(出典:[2])
斉藤洋美
- お便りコーナー
- 愛のゆくえ
- 洋美スペシャル
- 日米親善 愛のレッスン
- スペースメルヘン
- ドッキリクイズ
- だからいったじゃないの
- ちょっとエッチな話
- 気分はもうスポーツ
- 洋美の家庭教師
- 今週の東大さん
- 洋美の部屋
大橋照子
- メモリアルキャンディーズ(キャンディーズ活躍期にあった、「キャンディーズ情報局」の後継にあたるコーナー。リスナーでありキャンディーズファンであったカビ(ペンネーム)ら複数名がコーナーを担当)
- コルグ・サウンドメイクアップ(スポンサーであるKORG(当時・京王技研)のシンセサイザー販促コーナー。京王技研の社員であり、後にシンセサイザーに関する著作も多数出している、古山俊一がコーナー担当)
- 創作劇場(アチャラカ王国物語、など。レギュラーキャストが全て局アナという珍しい構成であった。脚本とナレーションは、現在も競馬中継などでおなじみの長岡一也、もう一人のキャストには、ニュース23など報道番組のナレーションで活躍中の柳志津男。なお、同名のタイトルで本が出版(著・長岡一也)されている)
- 伝言板コーナー(リスナーの集いの告知や、リスナー独自で活動しているサークルの人員募集、ミニコミ頒布告知、聴けなかった放送回のカセットテープの貸し借りなどがされていた)
- 紙相撲コーナー(リスナーから寄せられた手作りの紙相撲力士同士を競わせるコーナー。ラジオゆえ、実況が命だったコーナー)
- ポエム(リスナーから寄せられたポエムや、大橋照子の自作ポエムなども読まれていたコーナー)
- バビルコーナー(リスナーから寄せられた、コントハガキで構成されていたネタコーナー。ネタを読み終えると必ず「あーあ、バビル」などの数種類のジングル的な音声が流れた)
- ギャンブル大学(リスナーであるバビル高野(ペンネーム)らがコーナー担当)
- ペンタックスコーナー(スポンサーである、カメラメーカーのペンタックス(旭光学)のコーナー)
- スウィートタイム(大橋照子の、その時その時の心情を語っていたコーナー。主に番組の最後に位置することが多く、シメ的な役割のコーナーであった)
- ピッカリ!横山・憩いのひととき(リスナーである横山がコーナー担当)
- 都道府県ベストテン(毎週あるコーナーではなく、1年のうち一定期間行われていた。リスナーのお国自慢的な内容)
みのわ香代子
- 最終回には、「星の王子さま(サンテグジュペリ)」のラジオドラマが放送された。
小森まなみ
- こだぬき探偵団(ハガキが読まれたリスナーには探偵団員証が発行された)
- ヤロメロ笑学校
- なぜなぜマミチャン質問箱
- ドレミファソラジオ マミの歌コーナー
- ラジマガコーナー
- ドラマ・エンジェル学園(脚本は番組の放送作家であった西田公久が担当。主人公以外のキャストはスタジオリスナーが演じた)
- お誕生日おめでとう
たつみなな
- どんくさ監督物語
- 言い訳コーナー
- ヤロメロ教養大学
- 女性心理コーナー
- お話コーナー (電話でのコーナー)
番組出来事
(出典:[2])
- リスナー同士で都道府県人会が出来、新年会、忘年会、花見、合宿などが行われるほどリスナー間のつながりが深いことが特徴的であったが、各番組のリスナー同士で野球チームが結成されて『ヤロメロリスナー杯野球大会』が行われたこともあった。斉藤洋美リスナーの『赤坂スープレックス』と村田いづみリスナーの『いづみボンバーズ』の試合は、後楽園球場を借り切って行われたほどだった。最大ではこの2チームと合わせて、
- 小石川チェリーズ(大橋照子リスナー)
- ミルキー・タイガース(小森まなみリスナー)
- 麻布レイダース(水曜日リスナー)
- サタメロ(土曜日リスナー)
- の4チームの計6チームが結成されていた。
- リスナー同士の強固な結束とネットワークが発揮された例として、当時、AM放送を含むラジオ民放各社が「二十歳の献血キャンペーン」を行った際に、イベントの局別動員数がAM各局を桁違いで離し、動員数トップに躍り出た年があった。
- 当時はスタジオ参加リスナーがスタジオ内で番組を録音することが黙認されており、パーソナリティが使用する広めの円卓に、録音機能付きウォークマンやカセットテレコが多数置かれるのも珍しくはなかった。学生の休み期間ともなると、テーブルの半分以上を埋め尽くすということもあった。
- 1981年、日本国内のプロ野球で阪神が既に巨人に10ゲーム以上離されていた時に、ある阪神ファンが『今年阪神が優勝できなかったら丸坊主になる』と、斉藤洋美の生放送中に“公約”。しかし結局その年のセ・リーグは巨人の優勝に終わり、同年9月28日に100人を超す大入りのリスナーの前で公開断髪式が行われた。因みにこのリスナーはこの3日後の生放送の時にもスタジオを訪れており、その時のパーソナリティ・大橋照子がこのリスナーを見て一言『来年はどこを剃る?』。なお、大橋はこの話を聞いたつボイノリオに“大橋ソル子”と言われたという。
- 翌1982年に今度は斉藤洋美が『巨人が優勝できなかったらレオタード姿で放送する』と公約。この発言の時には巨人は首位に居たが、この年のセ・リーグは中日が逆転優勝を収め、公約通り同年の10月29日にカメラマン・横木安良夫が指導する中で撮影会が行われ、斉藤洋美もショッキングピンクのレオタード姿でカメラを持参した100人以上のリスナーの前で撮影会に臨むこととなった。
- なお、1985年の『はしゃいで○○大放送』の中でも同様にプロ野球を巻き込んだ“賭け事”が小森まなみの番組中で行われている。(はしゃいで○○大放送#番組出来事の項を参照)
- 斉藤洋美はシングルレコードを出したこともある(タイトル:Please Look at My 愛)。しかし一般市場に流通するようなメジャーレーベルからのものではなく、当時常連リスナーの一人であった東大さん(ペンネーム。本名:田中公明)主導で、自主制作として制作された。プロジェクトの進捗は番組内でもされ、番組内で曲も発表された。また、東大さんがプロデュース的な役割を担い、別の曜日でスポンサーコーナーに出向出演していたKORG(京王技研)の古山俊一氏が、同社のシンセサイザーを駆使して制作した楽曲を元にした「斉藤洋美のテーマソング」のようなものも制作されたが、こちらは番組内で流されたのみで、盤に残るようなことはなかった。
脚注
- ^ a b c d e f 『月刊アドバタイジング』第26巻第5号、電通、1981年5月25日、73頁、NDLJP:2261988/38。
- ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1986年2月号『特集・ラジオたんぱ午後4時のプログラム』