モンゴルのチャンパー侵攻

モンゴルの侵攻前夜の東南アジア諸国。チャンパ王国は図中で黄色に着色された範囲で、モンゴル軍は国都ヴイジャヤ(占城港)に海路で直接攻め込んだ。

モンゴルのチャンパー侵攻(モンゴルのチャンパーしんこう)では、1282年から1283年にかけてチャンパ王国(占城国)に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。

この頃、チャンパーは中国大陸東南アジア諸国を結ぶ海上交通の要衝となっており、モンゴル軍にとってこの遠征はチャンパーを単に制圧するだけでなく、より遠方の東南アジア諸国への出兵の前線基地(占城行省)とするという意図を持ったものであった[1]。モンゴル軍は当初陸・海双方による侵攻を計画していたが大越国陳朝(モンゴル側からの呼称は「安南」)が協力を拒否したため、日本遠征と同様に洋上艦隊による海路からの侵攻という形でチャンパー遠征は実施された。

ソゲドゥ率いるチャンパー遠征軍は当初こそ順調に占領地を増やしたが次第に補給不足に悩み、最終的には北方の大越国方面に撤退を余儀なくされた[2]。また、援軍として派遣されたクトゥク率いる軍団もソゲドゥ軍との合流に失敗した上、風雨によって艦隊が壊滅したことによりモンゴルのチャンパー侵攻は失敗に終わることとなった。モンゴル側ではこの後もチャンパー遠征を諦めてはいなかったが、これに続いて大越国への出兵にも失敗したことにより、再度チャンパー遠征軍が派遣されることはなくなった。

背景

モンゴルによる第一次南海招諭

モンゴル帝国による東南アジア諸国侵攻図。チャンパー出兵は「1281」と書かれた緑色の矢印に相当する。

至元14年(1277年)、南宋国の首都臨安が陥落したことは、モンゴルの南海進出を新たな段階に進ませた[3][4]。臨安陥落の同年12月には市舶司が設置され、これが南海諸国との交渉を担当するようになった[4]。この頃、早くも広南西道宣慰使の馬成旺が兵3,000・馬300で以て占城を征服せんことを請うているが、これは実現に至っていない[5][6]

至元15年(1278年)8月30日(辛巳)には泉州に行省が設けられ、ソゲドゥ・蒲寿庚らに以下の通り全国招諭が命じられた[7][4][8]

訳文:東南の島嶼にある諸蕃国は、みな慕義の心をもっているので、蕃舶諸人によって朕の意を宣布すべきである。誠に能く来朝するならば、朕はこれを手厚く礼遇し、その往来や互市は、各々の望むままに従わせよう。
原文:詔行中書省唆都・蒲寿庚等曰『諸蕃国列居東南島嶼者、皆有慕義之心、可因蕃舶諸人宣布朕意。誠能来朝、朕将寵礼之。其往来互巿、各従所欲』。 — クビライ・カアン、『元史』巻10世祖本紀7,至元十五年八月辛巳条[9]

これによって初めて占城国にも使者が派遣され、これを受けて至元16年(1279年6月28日甲辰)には占城国(チャンパー国)・馬八児国(パーンディヤ朝)から使者が到着し珍物や象・犀が献上された[7][10][11]。しかし、クビライ・カアンにとって「来朝」とはチンギス・カンの時代以来征服国に要求してきた「国王自身がカアンの下に出頭すること(親自来朝)」であったのに対し、ソゲドゥらが主導する外交は南宋の方式を踏襲して使者のやり取りのみによって君臣関係を結ぶというものであり、同年中にソゲドゥは一時外交権限を取り上げられてしまった[12]。モンゴル史研究者の向正樹は、チンギス・カン時代以来の外交方針(太祖皇帝の聖制)に縛られたクビライ・カアンが、それまでの中華王朝と東南アジア諸国の外交関係には見られなかった「モンゴル=スタンダード」を強要したことに対する反発が、モンゴルと東南アジア諸国との間で起こった戦役の遠因となったと論じている[13]

モンゴルによる第二次南海招諭

12月23日丙申)、ソゲドゥが再度起用されて第二次南海招論が行われたものの[14]、中央の枢密院翰林院の官と議論した上で実施するよう命じられており、クビライの求める外交方針(親自来朝)が徹底されたようである[7][13]。実際に、既にチャンパー国王インドラヴァルマン5世[15]は使者を派遣して内附の意を示しているにもかかわらず、この時派遣された兵部侍郎教化的・総管孟慶元・万戸孫勝夫らには占城国主(インドラヴァルマン5世)が「親自来朝」するよう求めることが命じられていた[16][17][14]。なお、この時派遣された使者の中で孫勝夫は蒲寿庚配下の人物で、教化的・孟慶元は中央の枢密院・翰林院から送り込まれた人物と考えられる[18]

至元17年(1280年)には2月・6月に占城国からの使者が到着し、貢物とともに臣下を称する「表(臣下が皇帝に奉る文書)」がクビライの下にもたらされた[19][20][21]。これを受けて、同年11月には再び宣慰使教化・孟慶元らが派遣されて「国主の子弟あるいは大臣の入朝」を要求した[22]。「国主自身の来朝」に比べると要求が緩和されているが、これはこの頃モンゴル朝廷で皇太子チンキムとその側近コルコスンの影響力が増大していたことが関係しているのではないかと推測されている[23]

占城出兵計画の進展

チャンパー王国の最大領域。

これまでのモンゴル・チャンパー間の交渉は使者のやりとりによる平和裏なものであったが、至元18年(1281年)に入るとモンゴル側の態度がより積極的かつ強硬なものに変わり始める[24][25]7月28日辛酉)に初めてソゲドゥを司令官とする占城への出征計画が公表されたが[26]9月30日壬辰)に占城からの使者が来航したとの記録があり[27]、恐らくはこのチャンパーからの使者とのやりとりを経て修正された出兵計画が10月17日己酉)に正式に命じられた[28]

『元史』世祖本紀や占城伝によると至元18年10月[29]にインドラヴァルマン5世を「占城郡王」に封じるとともに新たに「占城行省」を設立し、これにあわせてソゲドゥ・劉深イグミシュらがそれぞれ占城行省の右丞・左丞・参知政事に任命され、明年正月を期して「海外諸番を征すること」が命じられたたという[30][31][32]。そして同月18日には「海船100艘」 「新旧軍および水手合わせて万人」を編成して翌年正月に「海外諸番」を征すること、占城王には遠征軍に糧食を供給することが命じられた[24][33]。この出兵において、占城が従わなければ無論討伐対象とされたであろうが、遠征本来の目的はあくまで「海外諸番」すなわちより遠方の東南アジア諸国の征服にあったようである[34]。「占城行省」の設置も、南海航路の要衝たる占城を南海遠征の根拠地とすることで、南海諸国の統御の拠点とする意図があったと考えられる[28]。この出兵計画に基づき、同年11月には孟慶元・孫勝夫らを広州宣慰使に任じて出征軍の準備を命じるとともに、安南国王に対しても占城行省軍に食糧を補給するよう要求している[35]

ところが、このような事前準備にもかかわらず、結局至元19年(1282年)正月に占城出兵は行われなかった[36][37]。占城出兵計画が延期された理由は史料上に明記されないが、至元19年6月に「占城は既に服属するもまた叛した」という記録[38]があることが関係しているのではないかとも考えられている[39][40]

しかしこれによってモンゴル軍のチャンパー遠征計画が頓挫したわけでなく、至元19年6月10日戊戌)に当初の計画より半年遅れで占城への軍事出兵が改めて宣言された。『元史』占城伝によると、クビライは「占城国主は使を遣わして来朝し臣と称して内属しているが、その子のプティ(補的,恐らくインドラヴァルマン5世の王子ハリジット=後のジャヤ・シンハヴァルマン3世を指す[41])が服従せず、暹国(シャム)に派遣した万戸何子志・千戸皇甫傑らや馬八児国に派遣した宣慰使尤永賢・亞闌らが占城に寄航した時に拘留した」ことを理由に出兵したとされる[7][37][42][43]。『元史』世祖本紀によるとこの遠征のために淮・浙・福建・湖広各行省から徴発された軍兵5,000・海船(大海の航行に適するより大きな船)100艘・戦船(比較的小型で行動の敏捷な戦闘用)250艘が準備されてソゲドゥが司令官に任じられ、また11月には「天下の重囚」を軍兵にあてることが決められた[44][45]。また、『安南志略』巻4至元壬午、『大越史記全書』紹宝4年8月などが伝える所によると、クビライは同年8月に占城出兵に際して安南に兵糧を供給することと、進軍のために国内を通過することを要求したが、安南側はこれを拒否したという[44]。この記述から、モンゴル側は本来海陸双方から占城に侵攻する予定であったとみられるが、安南の反抗によって海路からのみ攻めざるをえず、これがモンゴル軍の苦戦につながることとなった[46]

戦闘

占城港の戦い

1795年に描かれたクイニョン港。「北に向かって海が湾入しており、東南は山(半島)で遮られる」という『元史』占城伝の記事とよく合致する。

『元史』占城伝によると、広州港より出発したモンゴル軍は至元19年11月に「占城港(現在のクイニョン港:Quy Nhơn/帰仁を指す[47])」に至った[7][48]。「占城港」は北に向かって海が湾入しており、周辺に5つの小港があって「大州」に至り、東南は山(半島を指す)で遮られ、西方に「木城」という要塞があって占城国の拠点とされていたという[49][48]。「木城」は四方約20里の要塞で、この時占城軍は木柵を立てた上で「回回砲」を100余り備えてモンゴル軍を待ち構え、更にその西方に国主インドラヴァルマン5世自らが軍を率いて駐屯していた。ソゲドゥは都鎮撫李天祐・総把賈甫らを派遣して改めてインドラヴァルマン5世の投降を促し、七たびに渡って使者のやり取りが行われたが、結局交渉は決裂した[48]

12月に入ると、モンゴル軍のもとに滞在していた真臘(現カンボジア)国使のスレイマン(速魯蛮)が自ら使者となることを申し出、李天祐らとともに木城の西方の行宮にいたインドラヴァルマン5世の下を訪れた[48]。しかしインドラヴァルマン5世は「(我が国は)すでに木城は修復し、甲兵を備えている。期日をあわせて戦おうではないか」と強気の返答を返したという[50][48]

年が明けて至元20年(1283年)に入ると、ソゲドゥはこれ以上の交渉は無駄と見て1月15日夜半より木城への総攻撃を開始した[51]。モンゴル軍は全軍を3部隊に分け、瓊州安撫使の陳仲達・総管の劉金・総把の栗全らは兵1,600を率いて水路を経て北面から、総把の張斌・百戸の趙達らは300名を率いて東面の沙觜から、ソゲドゥ率いる3,000の本隊は南面からそれぞれ迫り、夜が明けた16日早朝に接岸したが、風濤のため17,8人がこの時亡くなったという[51][52]。モンゴル軍の接近を知った木城側は南門から戦象部隊数十を含む1万人あまりが出陣し、モンゴル軍にあわせて3部隊に分かれて迎え撃った[51]。激戦が早朝から正午にわたって繰り広げられたが、遂に占城軍が敗走してモンゴル軍が木城を占領するに至った[51]。敗走した占城軍を追撃して城の東北方面でも再度戦闘が行われ、ここでも大敗した占城軍は数千二人が殺されるか溺死したという[51]。敗戦を知った国主は撤退を決めたが、同時に倉廩などを焼いた上で臣下とともに山中に入り、モンゴル軍に対して焦土戦術をしかけた[51]。また、先にチャンパー国に拘留されてモンゴル軍の出兵理由にも挙げられた尤永賢・亞闌らはこの時処刑されたと伝えられている[53]

なお、『元史』ソゲドゥ伝に「ソゲドゥは戦船1,000艘を率いて広州を出て海路より占城を伐たんとし、占城もこれを迎え撃った。占城の兵は20万と号していたが、ソゲドゥは死士を率いてこれを撃ち、占城側の戦死者・溺死者は5万人あまりを数えた[54]」 とあるのは、やや誇張されているがこの占城港の戦いを指すとみられる[55]

大州での投降交渉

国都ヴィジャヤの遺跡。

1月16日に占城港(クイニョン港)を制圧したモンゴル軍は、1月17日より「大州(首都ヴィジャヤ英語版を指す[56])」の包囲を始め、1月21日にはこれを占領した[57]。この間、山中に逃れていた国主インドラヴァルマン5世は1月19日に使者を派遣してモンゴル軍に投降の意を示しており、1月20日には使者を迎え入れたモンゴル軍はチャンパーの投降を受け容れ、これ以後両国の間では戦闘ではなく使者を介した交渉が行われることとなる[58][57]。大州が陥落した1月21日には、再びチャンパー側からの使者がモンゴル軍の下に到着して「国主と太子は後程来られます」と説明したため、これを受けてモンゴル軍は大州の城外で国主の来降を待った[57]。1月23日、国主は舅の宝脱禿花ら30人余りを派遣して雜布200匹・大銀3錠・小銀57錠・碎銀1甕などを進貢し、また「国主は自ら来ることを望んでいますが、病のため動くことができず、我らを派遣して誠意を示しました。太子のプティは3日後に来られる予定です」と国主自らが訪れないことを弁明した[57]。もっとも、後に明らかになるようにチャンパーの側では本気でモンゴルに降るつもりはなく、『元史』占城伝はこのような占城側の態度を「降伏を偽って罪を免れようとした(許其降免罪)」と表現している[59]

その後、宝脱禿花は国主の第4子利世麻八都八徳剌・第5子世利印徳剌と来見し、「チャンパー軍はかつて10万の兵でもってモンゴル軍と戦ったが、今や皆敗れて潰走してしまいました。敗戦の兵に事情を聴くと、国主長子のプティは傷を負って既に亡くなり、国主は頬に矢傷を負って愧懼し表に出ないといいます。そのため、先に2人の太子を派遣して国主の代理とします」と述べた[60]。そこで2人の太子はモンゴル軍の下を訪れたが、軍の高官は2人が偽の太子であると疑って追い返した[60]。また、モンゴル側は国主が病であることも疑って千戸の林子全・総把の栗全・李徳堅らを派遣したが、山中に入った所でインドラヴァルマン5世の配下によって追い返されてしまった[60]。そこで、宝脱禿花は自らが間に立って国主の投降に尽力すると約束したが、これは後の行動からみて計画的欺瞞であったとみられる[59][60]。また、同日中にモンゴルからの使者で、占城王に拘留されていた何子志・皇甫傑ら100人余りが殺されたという[60]。彼らはモンゴル軍との交渉の際に人質とするために生け捕りにされていたが、ここに至って殺害されたものとみられる[59]

チャンパー軍の逆襲

チャム人の戦士を描いたレリーフ。

2月8日、宝脱禿花が再びモンゴル軍の下を訪れて「チャンパーの国主位は我が祖父・伯父らが代々受け継いできましたが、我が兄は簒奪によって王位を得ており、その時私の左右の大指も切られたことを実に恨みに思っております。国主・太子父子を捕らえて献上し、大元に服属することを請います」と申し出たため[61]、モンゴル軍はこれを受け容れて衣冠を賜った[62][63]2月13日、以前より占城に居住していた唐人の曾延らが、「国主は既に大州西北の鴉候山に逃れて3,000の兵を集め、また周辺地域に援軍を仰いでいます。 援軍が至れば唐人は皆殺しにされてしまうと聞いたので、私も逃れてきたのです」と進言した[64][63]2月15日、遂に宝脱禿花が宰相の報孫達児及撮及大師ら5人とともに来降したが、宝脱禿花はチャンパー軍の脅威を主張する曾延を詰問して「曾延は姦細の人であり、捕縛すべきである。 国主の軍は既に潰散しており、どうして戦うことができるのか」と批判した[63]。また「国主に従っていない州郡が12あり、国主は使者を派遣してこれを味方につけようとしています。モンゴル軍の側でも使者を派遣してこれを招論すべきです」と進言した。ただしモンゴル軍は宝脱禿花の進言の全ては信用せず、1,000の兵を調して半山塔(平定/Bình Định省に現存するチャンパー時代の塔のいずれかに相当するとみられる[65])に駐屯させ、また林子全・李徳堅らに100名の軍を率いさせ、宝脱禿花とともに大州を進討させるために派遣した[63]

林子全らが城の西に至ると、宝脱禿花が突如モンゴル軍を裏切って北門より象に乗って山中に逃れた[64][66]。モンゴル軍が諜者を捕らたところ、「国主は鴉候山にあって既に兵2万を集め、更に交趾(ヴェトナム=陳朝)・真臘(カンボジア=アンコール朝)・闍婆(ジャワ=シンガサリ朝)諸国に援軍を要請している。また国内多くの兵を挑発しているが、賓多龍(チャンパー南部のパーンドゥランガ英語版)・旧州(チャンパー北部で旧都インドラプラ英語版方面[67])の軍は未だ至っていない」との事情が分かり、ここに至って始めてモンゴル軍は宝脱禿花の言動が全くの虚言であり、曾延の進言こそが正しかったことを認識した[66]2月16日、モンゴル軍は万戸の張顒らをインドラヴァルマン5世の潜む方面に派遣し、また2月19日には国主の拠る「水城[68]」まで20里の地に至った[64][66]。チャンパー軍は塹壕を掘り大木を用いてモンゴル軍の接近を拒んだものの、モンゴル兵は2,000のチャンパ一兵を破って遂に水城の城下に至った[64][66]。ところが、モンゴル軍は山林に囲まれた水城を攻めあぐねて撤退しようとしたところ、チャンパー軍の奇襲を受け、モンゴル軍は全兵が奮戦することでようやく危地を脱し本隊の下に帰還することができた[66]。水城の攻略を困難とみたソゲドゥらは兵と糧食を集めて「木城」という拠点を築き、総管の劉金・千戸の劉涓・岳栄らにこれを守らせた[66]。これ以後、1年後の3月6日に至るまでのソゲドゥ軍の動向について『元史』占城伝は全く記録がなく、ソゲドゥ軍は確たる戦果もなくチャンパー軍のゲリラ戦に苦しめられる1年を送ったようである[69]

一方、本国のクビライ・カアンの下でもソゲドゥ軍が苦戦していることは把握しており、至元20年(1283年)2月20日乙巳)には早くもチャンパー遠征軍に糧食を届ける補給船を派遣することが決定され[70]、また5月13日丙寅)には漢軍7,000・新附軍8,000を徴発してソゲドゥへの援軍とするよう湖広のエリク・カヤに命じられている[71]。5月18日(辛未)には占城港の戦いでの勝利と国主・太子プティの逃亡がクビライ・カアンに報ぜられ、これを受けて同月21日(甲戌)には日本遠征の重囚を、26日(己卯)には海南島4州の兵をそれぞれチャンパー遠征軍に充てることが決められ、また28日(辛巳)にはソゲドゥの下に弓矢・甲仗を補給することが命じられた[72]。また、9月16日丙寅)にはソゲドゥらの管轄する「占城行省」と援軍の編成を命じられていたエリク・カヤの管轄する「荊湖行省」の合併が命じられているが[73]、これもチャンパー遠征軍増強策の一環であったようである[74][75]

しかし、同年10月17日(丁酉)には「チャンパーから逃れ帰った軍を罰した(誅占城逃回軍)」との記録があり、『元史』占城伝に記載のない至元20年3月以降にモンゴル軍は多くの脱走者を出すほど劣勢に陥っていたようである[76]。同日、かねてより予定されていたチャンパーへの援軍をクトゥク(忽都忽)が率いるよう命じられたが、後に明らかになるようにこの時点で既にチャンパー遠征軍への援軍派遣は遅きに失したものであった[77]

モンゴル軍の敗退

トゥアティエン=フエ省ラグーン。「大浪湖」はこの辺りにあったと考えられる。

『元史』占城伝によると、至元21年3月6日にソゲドゥは遂に独断でチャンパーから撤退することを決意した[78]。ソゲドゥが撤退を決意するに至った明確な理由は記録されていないが、『元史』巻166張玉伝には「至元20年に広東で盗賊が起こり、そのために占城への糧食の運搬が途絶えた」とあることから[79]、補給路途絶による食糧不足が起こったためではないかと考えられている[80]。しかし、上述したようにモンゴル朝廷側では戦況を知らずにクトゥク率いる軍団を援軍として派遣しており、両軍は完全に入れ違いとなってしまった[81]。この遠征軍は至元21年2月28日アタカイに命じて兵1万5千と船200艘の調達が命じられており[82]、船が足りなかったために広西省でも準備が命じられた上で編成されたものであった[81]

3月15日、クトゥク軍は占城国の舒眉蓮港(クイニョン付近とみられる[83])に到着したものの、既にソゲドゥ軍は撤退しておらず、営舎が焼かれているのを見て初めてソゲドゥ軍が既に撤退したことを知った[78]。クトゥクは万戸の劉君慶を派遣して新州(国都ヴィジャヤ)を占領し、そこでチャム人(占蛮)捕虜を得たことでようやくソゲドゥ軍が既に遠く去ってしまったことを把握した[84]。そこでやむなくクトゥクは単独で占城国主を招論しようと試み、3月20日に百戸の陳奎を使者としてインドラヴァルマン5世の下に派遣した[78]。3月27日、インドラヴァルマン5世は王通事[85]を派遣して納降を申し出、これを受けてクトゥクはこれまでモンゴルが何度も要求してきたように国王父子自らが来朝すること求めた[78][84]。そこでインドラヴァルマン5世は文労卭大巴南らを派遣してソゲドゥの侵攻によって国が荒廃し献上するものがないこと、そのため翌年に礼物を準備して嫡子を来朝させるつもりであると回答した[78][84]

一方、『元史』ソゲドゥ伝によると、クイニョンから北上したソゲドゥは大浪湖(恐らく承天/Thừa Thiên地方の湖沼のいずれかを指す[86])で再び占城軍に勝利した後[87]、安南国境に近い「烏里・越里(現在の広治/Quảng Trị省中部以南から承天/Thừa Thiên省を経て広南/Quảng Nam省北部に至る一帯[55]。)」を平定し糧食を確保することに成功していた[88]。一方、『元史』世祖本紀の4月22日(庚子)条には湖広行省のエリク・カヤらが「占城から散り散りに逃れてきた軍(占城散軍)」を収集して再び南征に向かわせたとの記事があり[89]、この頃までにソゲドゥ軍から逃亡した将兵がかなりの数中国本土に逃げ帰っていたようである[90]

更に、5月6日癸丑)には「唆都潰軍(ソゲドゥ配下の潰走した軍)」のみならず「江淮・江西両省潰軍(=クトゥク配下の潰走した軍)」を収集したとの記事があり[91]、この時すでにチャンパー遠征軍は壊滅状態にあったようである[92]。そして5月30日丁丑)にはクトゥクらの率いていた軍団は、「風のため船団が散り散りとなって潰走した(遇風船散、其軍皆潰)」との報告がクビライ・カアンになされた[7][93][94]。『元史』占城伝は3月27日以降のチャンパー遠征軍の動向について全く言及しないため、クトゥク軍の壊滅は3月27日以降、4月中に起こった事件と考えられる[95]。こうして、先に出発したソゲドゥ軍は補給不足により北方に撤退し、後に援軍として派遣されたクトゥク軍は風雨による艦隊の壊滅という形で姿を消すことで、モンゴル軍のチャンパー遠征は頓挫することとなった[96]

戦後交渉

13~14世紀の大越国。地図右下、1306年にチャンパーから陳朝に割譲された地区がソゲドゥの駐屯していた「ウリク地方」に当たる。
モンゴルの侵攻後の東南アジア諸国。

クトゥク軍が国内から退去した後、4月12日にはインドラヴァルマン5世は孫の済目理勒蟄・文労卭大巴南らをクビライ・カアンの下に派遣して改めて臣属を表明し、モンゴル(大元ウルス)との関係改善に努めた[78]。一方で、ソゲドゥ軍は大越国に近いチャンパー国領のウリク地方でいまだ健在であることが5月23日にクビライ・カアンに報告されており、これを救援しチャンパー侵攻を再開するために鄂州ダルガチの趙翥らが安南(陳朝)に派遣されることとなった[97]

モンゴルと安南(陳朝)の関係が悪化していく一方で、占城(チャンパー)は積極的に使者を派遣して再征を防ごうと尽力しており、7月11日(丁未)には江淮行省に占城からの使者が到着し占城国の地図が献上されている[98]。また、8月6日には占城国王インドラヴァルマン5世の派遣した太盤亞羅日加翳・大巴南ら11人がクビライの下に到着し、象3頭を献上するとともに、「ソゲドゥ軍を帰国させること、その代わりにチャンパーの物産を歳毎に職貢することを」請願した[99]。このインドラヴァルマン5世の請願については『東方見聞録』に以下のような関連する記述が存在する[100]

さてザイトゥン港を出帆し、上記した湾の下方を横断しつつ西南西に千五百マイル航行すると、チャンバという富裕な大国に到着する。この国は、現地人の国王をいただき固有の言語を有し、偶像教を奉じている。もっともカーンに対しては年ごとに使者をつかわし、象と沈香からなる貢物を献上しているが、彼等にとって外国君主に差し出す貢物といえば、ただこれきりなのである。ではチャンパ王がカーンに入貢するにいたった由来を次に申し述べよう。

キリスト降誕一二七八年に、カーンはソガトゥという重臣に歩騎の大軍を授けて、チャンパ王征伐を命じた。ソガトゥ将軍はチャンパ国に対して激しい攻撃を開始した。当時のチャンパ王はすでに老齢でもあり、またカーンの派遣軍に匹敵するほどの大軍を保有してもおらず、したがってとても野戦で侵入軍を破る見込みは立たなかったから、国中の大小諸都市に立てこもって固守する計を立てた。これら諸都市はその防備がとても堅固で、これによる限り、 いかなる敵もおそれるにはあたらなかった。しかしてその代わり、国中の広大な田野と数多い村落とは、ことごとく劫掠され破壊されるを免れなかった。こうしてソガトゥ将軍の手により王国がいたる所で劫掠され荒廃せしめられつつあるのを知った王は、いたく悲しみ、さっそくと使臣数名を召集してこれをカーンのもとに派遣し、次のような伝言を致さしめたのである。使者の一行は、途中いくたの艱難を冒してカーンの御前に到来するや、こう奏上した。

「陛下、チャンパ王はカーンの藩臣としての礼を執って、陛下に御挨拶申し上げます。チャンパ王はすでにすこぶる高齢であり、これまでなく王国を平和に統治して参りましたが、ただいまわれら使節を派遣し、自発的に陛下の臣僕となることを奏請いたします。なお毎年の貢物として数頭の馴象と沈香とを献上することをお許し下さいませ。ひとえに請い願わくば、わが国土を劫掠しつつある陛下の将軍ならびに遠征軍を召喚し給わんことを」。こう伝言し終わると、使臣は固く口を閉じたまま、以外に一語も発しなかった。カーンはチャンパ王のこの恭順な奏請を聞いて老王を不憫に思い、ただちに勤を下して将軍ソガトゥおよびその廊下の軍隊をチャンバ国から撤退せしめ他の地方に移動してその地の征服に従事せしめることにした。 — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[101]

この記述はチャンパー側の撤兵要請によって始めてソゲドゥが退却したとする点で誤りではあるが、ソガトゥ=ソゲドゥという将軍によって侵攻が行われた事、これに対してチャンパー側は各地の都市に籠城することで対抗した事、最終的にはチャンパー側からの働きかけによって朝貢関係が成立し象が献上された事、などは『元史』の記述とよく合致し確かな史料源に基づく記述であるとみられる。

この後、11月16日(庚寅)にも占城国王が派遣した大羅盤亞羅日加翳らが礼幣と象を献上したが[102]、このような占城側の融和策にもかかわらず、モンゴル側ではチャンパー再征を諦めていなかった[103]。しかし、占城-安南国境地帯に残留するソゲドゥ軍の処遇をめぐって今度はモンゴルと安南(陳朝)の対立が表面化することになり、モンゴル軍の侵攻の焦点は安南(陳朝)に移り結局はチャンパー遠征が再開されることはなかった[104]

影響

モンゴル側がチャンパー国王自らの来朝を諦め、チャンパー側の求めるように形式的な朝貢関係を復活させたことは、むしろモンゴルの東南アジア・南アジア諸国への進出の追い風となった[105]。これは、海上交通の要衝たるチャンパーとの関係が安定したことで使者の往来が容易となったこと、また南海諸国側にとってもモンゴル-チャンパー関係が安定化したことでモンゴルに対する態度を決めやすくなったことが影響していると考えられる[105]。この結果、それまでの南海諸国招論の総決算という形で、至元23年(1286年)9月に馬八児・須門那・僧急里・南無力・馬蘭丹・那旺・丁呵児・来来・急闌亦帯・蘇木都剌10ヶ国が一斉にモンゴルに来朝した[106]。多くの国で来朝は長続きしなかったものの、これまでのモンゴル政権による積極的な海上進出政策は東アジア~東南アジア~南アジア~西アジアを結ぶ海上交易路の隆盛をもたらしたと言える[107]

またモンゴルのチャンパー遠征がもたらした影響の一つとして、ソゲドゥ・蒲寿庚らそれまで南海進出を主導してきた者達が引退・死亡して代替わりが生じたことが挙げられる[108]。ソゲドゥはチャンパー遠征に失敗した後に大越方面に進出してそこで戦死し、蒲寿庚も至元17年以降ほとんど史料上で言及されなくなる[109]。これに代わって南海進出に登用されたのが福建行省の史弼高興・イグミシュらであったが、彼等もまたジャワ出兵に失敗することで失脚することとなった[110]

脚注

  1. ^ 宋末に編纂された『島夷雑誌』には「広州から船で諸蕃に至るには占城が最も近い」と記されており、この頃に航海技術の発達によって広州から直接チャンパーに至るルートが確立していたことが窺える。これに関連するように、同時期に西方のアンコール朝も大越国との交易を減らし、代わってロップリーを経てタイ湾に出る交易ルートを開拓している(桃木2011,143頁)。
  2. ^ 桃木2001,184頁
  3. ^ 向2021,254頁
  4. ^ a b c 山本1950,99頁
  5. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「占城近瓊州、順風舟行一日可抵其国。世祖至元間、広南西道宣慰使馬成旺嘗請兵三千人・馬三百匹征之」
  6. ^ 山本1950,99-100頁
  7. ^ a b c d e f 渡辺2023,265頁
  8. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十五年……進参知政事、行省福州。徴入見、帝以江南既定、将有事於海外、陞左丞、行省泉州、招諭南夷諸国」
  9. ^ 訳文は向2013,73頁より引用
  10. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年六月]甲辰……占城・馬八児諸国遣使以珍物及象犀各一来献」
  11. ^ 向2013,77頁
  12. ^ 向2013,78-79頁
  13. ^ a b 向2013,79頁
  14. ^ a b 山本1950,101頁
  15. ^ モンゴル侵攻時のチャンパー王の名前はチャム語碑文によってIndravarmanであると明らかになっている。一方、漢文史料の『元史』では様々な表記があり、世祖本紀至元18年10月条の「失里咱牙信合八剌麻合叠(シュリージャヤ・シンハヴァルマン・マハーデーヴァ/Çriījaya Sinhavarman Mahādeva)」、『元史』占城伝17年条の「保宝旦拏囉耶卭南詙占把地囉耶(PuPoṅ tana rāja Camphādirāja)」、『元史』占城伝19/20年条の「孛由補剌者吾(Pulyaṅ Çri Yuvarāja Vlom)」といった表記がある(山本 1950,106-107頁)。
  16. ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年十二月]丙申、敕枢密・翰林院官、就中書省与唆都議招收海外諸番事。……丁酉……詔諭海内海外諸番国主。賜右丞張惠銀五千四百両。……詔諭占城国主、使親自来朝。唆都所遣阇婆国使臣治中趙玉還」
  17. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十五年、左丞唆都以宋平遣人至占城、還言其王失里咱牙信合八剌麻哈迭瓦有内附意、詔降虎符、授栄禄大夫、封占城郡王。十六年十二月、遣兵部侍郎教化的・総管孟慶元・万戸孫勝夫与唆都等使占城、諭其王入朝」
  18. ^ 向2013,79-80頁
  19. ^ 山本1950,102頁
  20. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十七年二月、占城国王保寶旦拏囉耶卭南詙占把地囉耶遣使貢方物、奉表降」
  21. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年六月]壬申、復招諭占城国……[八月]戊寅、占城・馬八児国皆遣使奉表称臣、貢宝物犀象」
  22. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年十一月]丁卯……遣宣慰使教化・孟慶元等持詔諭占城国主、令其子弟或大臣入朝」
  23. ^ 向2013,84頁
  24. ^ a b 山本1950,103頁
  25. ^ なお、これに先行して安南(大越国陳朝)に対しては至元17年から皇子・国王の入朝が命じられるなど強硬なものとなっている(山本1950,107頁)。
  26. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年秋七月]辛酉、唆都征占城、賜駝蓬以辟瘴毒。占城国来貢象犀」
  27. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年九月]壬辰、占城国来貢方物」
  28. ^ a b 山本1950,105頁
  29. ^ 占城伝の原文では「至元十九年」となっているが、本紀に従って18年と訂正するのが正しい(山本1950,104頁)。
  30. ^ 向2013,85頁
  31. ^ ただし、『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝には「十八年、拝荊湖占城等処行中書参知政事、招諭占城」とあるが、「荊湖占城等処行中書省」という名称は至元20年9月以後に設定されたものであり、これは「占城等処行中書省」と訂正すべきである(山本1950,106頁)。
  32. ^ 本紀の記事はこの時既に諸将が占城に至っていたかのようにも読めるが、あくまで朝廷で任命がなされた記事であると解すべきである(山本1950,105-106頁)。
  33. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年冬十月]己酉……命失里咱牙信合八剌麻合叠瓦為占城郡王、加栄禄大夫、賜虎符。立行中書省占城。以唆都為右丞、劉深為左丞、兵部侍郎也里迷失参知政事。庚戌、敕以海船百艘、新舊軍及水手合万人、期以明年正月征海外諸番、仍諭占城郡王給軍食。以安南国王陳遺愛入安南、発新附軍千人衛送。詔諭幹不昔国来帰附」
  34. ^ 山本1950,104頁
  35. ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年十一月]己巳……奉使占城孟慶元・孫勝夫並為広州宣慰使、兼領出征調度。……詔安南国王給占城行省軍食」
  36. ^ 山本1930,100頁
  37. ^ a b 向2013,86頁
  38. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]戊戌、以占城既服復叛、発淮・浙・福建・湖広軍五千・海船百艘・戦船二百五十、命唆都為将討之。亡宋軍有手号及無手号者、並聴為民」
  39. ^ 山本1950,108頁
  40. ^ なお、『元史』カルナダス伝には至元24年以前に 「南海諸国への出征をとりやめて使者を派遣することとした」との記述があり(『元史』巻134列伝21迦魯納荅思伝,「朝議興兵討暹国・羅斛・馬八児・倶藍・蘇木都剌諸国、迦魯納荅思奏「此皆蕞爾之国、縦得之、何益。興兵徒残民命、莫若遣使諭以禍福、不服而攻、未晩也」。帝納其言。命岳剌也奴・帖滅等往使、降者二十餘国」)、至元19年正月の出兵延期と関連しているのではないかとする説がある。ただし、この記述は至元23年のことを指すとも解釈でき、至元19年正月の出兵延期の原因であると断言はできない(山本1950,109頁)。
  41. ^ 山本1950,112頁
  42. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十九年十月、朝廷以占城国主孛由補剌者吾曩歲遣使来朝、称臣内属、遂命右丞唆都等即其地立省以撫安之。既而其子補的專国、負固弗服、万戸何子志・千戸皇甫傑使暹国、宣慰使尤永賢・亞闌等使馬八児国、舟経占城、皆被執、故遣兵征之。帝曰『老王無罪、逆命者乃其子与一蛮人耳。苟獲此両人、当依曹彬故事、百姓不戮一人』」
  43. ^ ただし、『元史』世祖本紀によるとソゲドゥに占城討伐が命じられた翌日の至元19年6月11日に何子志が暹国に派遣されており(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]己亥、命何子志為管軍万戸、使暹国」)、「何子志らが占城国に捕らえられた為にクビライは出兵を決意した」とする『元史』占城伝の記述と食い違う。この点について安南史研究者の山本達郎は、クビライが占城出兵を表明した至元19年6月以後も両国の使者のやりとりが記録されていることに注目し(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年八月]丙辰、謫捏兀叠納戍占城以贖罪。……[冬十月]甲辰、占城国納款使回、賜以衣服」)、6-7月時点では占城国側は本気でモンゴルと対立する気はなく交渉によってこの南極を乗り切ろうとしたのではないか、と推測する。しかし結果的に交渉は失敗したため、ここで初めて占城側はクビライの使者を拘束し、クビライも改めて占城への出兵を表明したのではないか、と論じている(山本1950,111頁)。)
  44. ^ a b 山本1950,113頁
  45. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年十一月]甲戌、中書省臣言『天下重囚、除謀反大逆、殺祖父母・父母、妻殺夫、奴殺主、因姦殺夫、並正典刑外、余犯死罪者、令充日本・占城・緬国軍』。従之。改鑄省印」
  46. ^ 山本1950,114頁
  47. ^ 山本1950,116頁
  48. ^ a b c d e 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「[至元十九年]十一月、占城行省官率兵自広州航海至占城港。港口北連海、海旁有小港五、通其国大州、東南止山、西旁木城。官軍依海岸屯駐。占城兵治木城、四面約二十餘里、起樓棚、立回回三梢砲百餘座。又木城西十里建行宮、孛由補剌者吾親率重兵屯守応援。行省遣都鎮撫李天祐・総把賈甫招之、七往、終不服。十二月、招真臘国使速魯蛮請往招諭、復与天祐・甫偕行、得其回書云『已修木城、備甲兵、刻期請戦』」
  49. ^ 山本1950,117頁
  50. ^ 山本1950,114-115頁
  51. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二十年正月、行省伝令軍中、以十五日夜半発船攻城。至期、分遣瓊州安撫使陳仲達・総管劉金・総把栗全以兵千六百人由水路攻木城北面。総把張斌・百戸趙達以三百人攻東面沙觜。省官三千人分三道攻南面。舟行至天明泊岸、為風濤所碎者十七八。賊開木城南門、建旗鼓、出万餘人、乘象者数十、亦分三隊迎敵、矢石交下。自卯至午、賊敗北、官軍入木城、復与東北二軍合擊之、殺溺死者数千人。守城供餉餽者数万人悉潰散。国主棄行宮、燒倉廩、殺永賢・亞闌等、与其臣逃入山」
  52. ^ なお、この時動員された兵数を合計すると全軍で49,00名となり、『元史』世祖本紀 至元十九年六月戊戌条の「淮・浙・福建・湖広各行省から徴発された軍5,000(淮・浙・福建・湖広軍五千)」という数とよく合致する(山本1950,119頁)。
  53. ^ 山本達郎は、尤永賢・亞闌らを人質にする形でチャンパー国は12月の交渉を行っていたが、交渉は頓挫してモンゴルの攻撃を受けたため、人質としての価値を失ったと判断したチャンパー国主によって尤永賢・亞闌らは処刑されたのであろう、と指摘する(山本1950,120頁)。)
  54. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十八年、改右丞、行省占城。十九年、率戦船千艘、出広州、浮海伐占城。占城迎戦、兵号二十万。唆都率敢死士撃之、斬首並溺死者五万余人」
  55. ^ a b 山本1950,139頁
  56. ^ 山本1950,115-117頁
  57. ^ a b c d 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十七日、整兵攻大州。十九日、国主使報答者来求降。二十日、兵至大州東南、遣報答者回、許其降免罪。二十一日、入大州。又遣博思兀魯班者来言『奉王命、国主・太子後当自来』。行省伝檄召之、官軍復駐城外。二十三日、遣其舅宝脱禿花等三十餘人、奉国王信物雜布二百匹・大銀三錠・小銀五十七錠・碎銀一甕為質、来帰款。又献金葉九節標槍曰『国主欲来、病未能進、先使持其槍来、以見誠意。長子補的期三日請見』。省官却其物。宝脱禿花曰『不受、是薄之也』。行省度不可却、姑令收置、乃以上聞」
  58. ^ 山本1950,119頁
  59. ^ a b c 山本1950,120頁
  60. ^ a b c d e 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「宝脱禿花復令其主第四子利世麻八都八徳剌・第五子世利印徳剌来見、且言『先有兵十万、故求戦。今皆敗散。聞敗兵言、補的被傷已死。国主頰中箭、今小愈、愧懼未能見也、故先遣二子来議赴闕進見事』。省官疑其非真子、聴其還。諭国主早降、且以問疾為辞、遣千戸林子全・総把栗全・李徳堅偕往覘之。二子在途先帰。子全等入山両程、国主遣人来拒、不果見。宝脱禿花謂子全曰『国主遷延不肯出降、今反揚言欲殺我、可帰告省官、来則来、不来、我当執以往』。子全等回営。是日、又殺何子志・皇甫傑等百餘人」
  61. ^ ここで宝脱禿花が述べる王家内の内紛はそのまま事実と受け取れないが、インドラヴァルマン5世自身が叔父のジャヤ・インドラヴァルマン1世から墓奪した人物と伝えられており、まったくの創作とも言い難いと考えられる(山本1950,122頁)
  62. ^ 山本1950.122頁
  63. ^ a b c d 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二月八日、宝脱禿花又至、自言『吾祖父・伯・叔、前皆為国主、至吾兄、今孛由補剌者吾殺而奪其位、斬我左右二大指、我実怨之。願禽孛由補剌者吾・補的父子、及大拔撒機児以献。請給大元服色』。行省賜衣冠、撫諭以行。十三日、居占城唐人曾延等来言『国主逃於大州西北鴉候山、聚兵三千餘、并招集他郡兵未至、不日将与官軍交戦。懼唐人泄其事、将盡殺之。延等覚而逃来』。十五日、宝脱禿花偕宰相報孫達児及撮及大師等五人来降。行省官引曾延等見、宝脱禿花詰之、曰『延等姦細人也、請繫縲之。国主軍皆潰散、安敢復戦』。又言『今未附州郡凡十二処、每州遣一人招之。旧州水路、乞行省与陳安撫及宝脱禿花各遣一人乘舟招諭攻取。陸路則乞行省官陳安撫与己往禽国主・補的及攻其城』。行省猶信其言、調兵一千屯半山塔、遣子全・徳堅等領軍百人、与宝脱禿花同赴大州進討、約有急則報半山軍」
  64. ^ a b c d 山本1950,122頁
  65. ^ 山本1950,123-124頁
  66. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「子全等比至城西、宝脱禿花背約間行、自北門乗象遁入山。官軍獲諜者曰『国主実在鴉候山立寨、聚兵約二万餘、遣使交趾・真臘・闍婆等国借兵、及徵賓多龍・旧州等軍未至』。十六日、遣万戸張顒等領兵赴国主所棲之境。十九日、顒兵近水城二十里。賊浚濠塹、拒以大木、官軍斬刈超距奮擊、破其二千餘衆。転戦至木城下、山林阻隘不能進、賊旁出截帰路、軍皆殊死戦、遂得解還営。行省遂整軍聚糧、創木城、遣総管劉金、千戸劉涓・岳栄守禦」
  67. ^ この頃の漢文史料に記載される「占城国の旧州・新州」とは、「チャンパー国の旧都インドラプラ・新都ヴィジャヤ」を指す単語と見られる。また、『元史』には「占城旧州主が入附した」との記録もあり、旧州=インドラプラ一帯はチャンパー領でありながらチャンパー王とは別の有力者によって治められていたようである(山本1950,124頁)。
  68. ^ 『元史』占城伝のこの時期の記述には「水城」と「木城」という城名が現れるが、文脈から見て同一の城でありどちらかが誤りと考えられる。また、占城港にあった「木城」とは全く別の存在と見なすべきである(山本1950,122頁)。
  69. ^ 山本1950,124頁
  70. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年二月]乙巳、令隆興行省遣軍護送占城糧船」
  71. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年五月]丙寅……敕阿里海牙調漢軍七千・新附軍八千、以付唆都従征」
  72. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年五月]辛未、占城行省已破占城、其国主補底遁去、降璽書招来之。甲戌、発征日本重囚往占城・緬国等処従征。……己卯……海南四州宣慰使朱国宝請益兵討占城国主、詔以阿里海牙軍万五千人応之。……辛巳、給占城行省唆都弓矢甲仗」
  73. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年九月]丙寅……併占城・荊湖行省為一」
  74. ^ 山本1950,125-126頁
  75. ^ なお、この時占城行省と合併したのが海岸方面の福建などではなく内陸の「荊湖」であったのは、荊湖からは陸軍を進発させ、水陸双方から安南・占城に進軍する意図があったためと考えられる。実際に、後に安南遠征軍は荊湖方面から進発している(山本1950,129頁)。
  76. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元二十年冬十月]丁酉、誅占城逃回軍。……以忽都忽総揚州行省唆都新益軍」
  77. ^ 山本1950,126頁
  78. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二十一年三月六日、唆都領軍回。十五日、江淮省所遣助唆都軍万戸忽都虎等至占城唆都旧制行省舒眉蓮港、見営舍燒尽、始知官軍已回。二十日、忽都虎令百戸陳奎招其国主来降。二十七日、占城主遣王通事者来称納降。忽都虎等諭令其父子奉表進献。国主遣文労卭大巴南等来、称唆都除蕩其国、貧無以献、来年当備礼物、令嫡子入朝。四月十二日、国主令其孫済目理勒蟄・文労卭大巴南等奉表帰款。是年、命平章政事阿里海牙奉鎮南王脱歓発兵、假道交趾伐占城、不果行」
  79. ^ 『元史』巻166列伝53張玉伝,「[至元]二十年、広東盜起、遏絶占城糧運」
  80. ^ 山本1950,132-133頁
  81. ^ a b 山本1950,132頁
  82. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年二月]丁未……命阿塔海発兵万五千人・船二百艘助征占城、船不足、命江西省益之」
  83. ^ 山本1950,133頁
  84. ^ a b c 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]己未、荊湖占城行省言『忽都虎・忽馬児等将兵征占城、前鋒舟師至舒眉蓮港不知所向、令万戸劉君慶進軍次新州、獲占蛮、始知我軍已還矣。就遣占蛮向導至占城境、其国主遣阿不蘭以書降、且言其国経唆都軍馬虜掠、国計已空、俟来歲遣嫡子以方物進。継遣其孫路司理勒蟄等奉表詣闕』。……庚午、荊湖占城行省以兵進據烏馬境、地近安南、請益兵、命鄂州達魯花赤趙翥等奉璽書往諭安南」
  85. ^ 『元史』巻13世祖本紀10に「その国主は阿不蘭を遣わして書を以て降ろうとした(其国主遣阿不蘭以書降)」とあるのは、占城伝に「27日、占城の主は王通事なる者を遣わして納降せんことを称した(二十七日、占城主遣王通事者来称納降)」とあるのと同じ出来事を指すと考えられる。ただし、世祖本紀で続けて「且言其国経唆都軍馬虜掠、国計已空、俟来歲遣嫡子以方物進」とあるのは、占城伝の「国主遣文労卭大巴南等来、称唆都除蕩其国、貧無以献、来年当備礼物、令嫡子入朝」という記述の方に近く、世祖本紀の方は2回にわたる使者の派遣を一つにまとめていると考えられる(山本1950.134頁)。
  86. ^ 山本1950,140頁
  87. ^ ただし、ソゲドゥ伝に大浪湖の勝利の後「占城が降った」とあるのは事実とは考えにくく、実際には占城国そのものが降ったのではなくソゲドゥ軍に敗れた占城軍が投降したというほどの意味ではないかと考えられる(山本1950,141頁)。
  88. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「又敗之於大浪湖、斬首六万級。占城降、唆都造木為城、辟田以耕。伐烏里・越里諸小夷、皆下之、積穀十五万以給軍」
  89. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年夏四月]庚子、湖広行省平章阿里海牙請身至海濱收集占城散軍、復使南征、且趣其未行者、許之」
  90. ^ 山本1950,136-137頁
  91. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]癸丑、枢密院臣言『唆都潰軍已令李恒收集、江淮・江西両省潰軍、別遣使招諭、凡至者皆給之糧、舟楫損者修之、以俟阿里海牙調用』。従之」
  92. ^ 山本1950,136頁
  93. ^ 世祖本紀の記事ではクトゥク軍は占城への航海中に壊滅したようにも見えるが、占城伝の記すように占城国には到着したが、先に撤退してしまったソゲドゥ軍と合流するために移動した際中の事件と見なすべきである(山本1950,137頁)
  94. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]丁丑、忽都虎・烏馬児・劉万戸等率揚州省軍二万赴唆都軍前、遇風船散、其軍皆潰。敕追烏馬児等誥命・虎符及部将所受宣敕、以河西孛魯合答児等代之、聴阿里海牙節制」
  95. ^ 山本1950,137-138頁
  96. ^ 山本1950,138頁
  97. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年五月]庚午、荊湖占城行省以兵進拠烏馬境、地近安南、請益兵、命鄂州達魯花赤趙翥等奉璽書往諭安南」
  98. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年秋七月]丁亥、江淮行省以占城所遣太半達連紥赴闕、及其地図来上」
  99. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年八月]辛亥……占城国王乞回唆都軍、願以土産歲修職貢、使太盤亞羅日加翳・大巴南等十一人奉表詣闕、献三象」
  100. ^ 山本1950,146頁
  101. ^ 訳文は愛宕1971,142-144頁より引用
  102. ^ 『元史』巻13世祖本紀10,「[至元二十一年十一月]庚寅、占城国王遣使大羅盤亞羅日加翳等奉表来賀聖誕節、献礼幣及象二、占城旧州主宝嘉婁亦奉表入附」
  103. ^ 山本1950,142頁
  104. ^ 山本1950,142-143頁
  105. ^ a b 向2013,87頁
  106. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]九月乙丑朔、馬八児・須門那・僧急里・南無力・馬蘭丹・那旺・丁呵児・来来・急闌亦帯・蘇木都剌十国、各遣子弟上表来観、仍貢方物」
  107. ^ 向2013,87-90頁
  108. ^ 向2013,90-91頁
  109. ^ 向2013,92頁
  110. ^ 向2013,93-96頁

参考文献

  • 元史』巻210列伝第97外夷3占城伝ほか
  • 愛宕松男『東方見聞録 2』平凡社、1971年
  • 杉山正明『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』講談社学術文庫、2010年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)杉山2014A
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)杉山2014B
  • 向正樹「モンゴル・シーパワーの構造と変遷」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会、2013年
  • 向正樹「元と南方世界」『元朝の歴史 モンゴル帝国期の東ユーラシア』勉誠出版、2021年
  • 桃木至朗「『ベトナム史』の確立」『岩波講座 東南アジア史〈2〉』岩波書店、2001年
  • 桃木至朗『中世大越国家の成立と変容』大阪大学出版会、2011年
  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年
  • 渡辺佳成「モンゴルの東南アジア侵攻と『タイ人』の台頭」『モンゴル帝国と海域世界:12-14世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 10〉、2023年
  • C.M.ドーソン著/佐口透訳『モンゴル帝国史 3巻』平凡社、1971年