モトヴン
モトヴン (クロアチア語: Motovunクロアチア語発音: [mɔtɔ̌ʋuːn], イタリア語: MontonaまたはMontona d'Istria) はクロアチアのイストリア半島中心部にある村およびそれを中心とした基礎自治体である。2001年現在、村自体の人口は531人で基礎自治体全体では983人であった。住民のうち192人はイタリア語を母語とする人たちである。1902-1935年の間、トリエステからポレッチまでポレチャンカと呼ばれる、ナローゲージの鉄道が敷かれており、村の下の谷を通っていた。季節になると周辺の森林ではトリュフが採取されるが、特に白トリュフは美味で有名。 みどころモトヴンはカステリイェルKastelijerと呼ばれていた古都の場所で発展した中世の町である。モトヴンは海抜270 m (886 ft) の場所にあり、丘に家屋が点在している。城壁の内壁の上にはモトヴンを支配したいくつかの異なった一族の紋章と、1世紀に遡るローマ人住民の2つの墓碑がある。10世紀や11世紀にモトヴンはポレッチ司教に属していた。1278年からヴェネツィアに引き継がれ周囲は今日でも損なわれていない堅牢な城壁に囲まれ、城壁はイストリアの四方の素晴らしい景色を眺める遊歩道として使われている。町の3つの全ての部分は内側と外側の城壁と14世紀から17世紀に建てられたロマネスク建築、ゴシック建築、ルネサンス建築の要素を含んだ塔と城門の仕組みでつながっている。これは典型的なヴェネツィアのコロニアル建築の例である[2]。 教区教会の聖ステパノ教会後期ルネサンス様式の聖ステパノ教会Sveti Stjepanは正確には17世紀に建築が始まり、スケッチによればおそらく設計したのは著名なヴェネツィアの建築家アンドレーア・パッラーディオ(1508-1510)である。教会にはフランチェスコ・ボナッゾFrancesco Bonazzoによる聖ステファンと聖ローレンスの大理石の彫像や17世紀の不明のヴェネツィア人芸術家の「最後の晩餐」などの作品が含まれている。14-15世紀頃の水溜が教会の正面にある。 モトヴンの森ミルナ川は丘の下を流れ、川の反対側は有名なモトヴンの森で面積はミルナ川と谷に10平方キロメートルの面積があり、そのうち280ヘクタールは特別に保護されている。この地域は近くの森林と比べて異なるだけでなく、カルスト地域全体とも野生動物や土壌が異なり、豊かで貴重な黒や白のトリュフが生育している。地下で生育したトリュフを収穫するため、特別に訓練された犬が使われている[2] 。最も一般的な森の木はヨーロッパナラかフユナラで、スラヴォニアオークの森と比較し得る。モトヴンの森の開発のため自然条件を維持するためミルナ川は治水され谷全体は洪水から守られているが、保護地域でも時折洪水に見舞われる[2]。丘の斜面上では有名なイストリアワイン用のブドウが栽培されている。(テラーノやマルヴァジアワイン) ヴェリ・ヨジェの伝説モトヴンは今日、イストリアの人々の中では穏やかで良い巨人であるヴェリ・ヨジェVeli Jožeの街として知られ、この巨人はイストリアのクロアチアの人々を象徴している。物語はヴラディミル・ナゾルにより書かれ、彼は20世紀の最も重要なクロアチア人作家の一人でこれはファシズム(1900-1914)に対するクロアチア人の全国闘争への答えでもあった。物語は今日、クロアチア中で知られヴェリ・ヨジョ(大きなジョー)のキャラクターはかなり正確に町とリンクしている[2]。 今日のモトヴン1999年以来、モトヴンでは国際的なアメリカやヨーロッパからの独立や前衛的映画のためのモトヴン国際映画祭が開催されている。 モトヴンの現在の地元の大きな問題は海外の開発業者との争いである。開発業者は2つの18ホールのゴルフコースと500ベッドを超えるリゾートを町の谷の下に現在ある9ホールのゴルフコースといくつかの地元のコミュニティに広げようとしているが、プロジェクト周辺の不動産投機や自然保護のためヴィラのための123の建物用地の拒否、川の反対側のトリュフの生育へのダメージへの懸念から開発業者の計画に反対している人もいる。反対と同じように多くは年間の仕事や地元の観光収入が増えることから歓迎しており、この問題では意見が分かれている。環境影響調査は現在では完了している。 モトヴンの平面図が1993、1995、2001、2004年に発行された10クーナ紙幣の裏側に表されている[3] 。 著名人
脚注
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