モズレー準男爵
モズレー準男爵(英語: Mosley Baronetcy)は、イギリスの準男爵位[注釈 1]。モズレー家は3回準男爵に叙されており、1期目はイングランド準男爵位、2期目と3期目はグレートブリテン準男爵位である。3期目の物が現存しているが、1980年以降は連合王国貴族爵位レイブンズデール男爵位と保持者を同じくしている。 歴史モズレー家はスタッフォードシャー・ウルヴァーハンプトン近くのモズレー村に起源をもつ[1]。ジョン王の時代にはアーノルド・ド・モズレー(Ernold de Moseley)という者が暮らしており、その次男からランカシャーの支族が生まれた。この支族で最初に言及されるのはエドワード4世治世下の1465年のジェンキン・モズレー(Jenkyn Moseley)である[1]。 その後、ニコラス・モズレー(1527年頃-1612年)とアンソニー・モズレー(1537年頃-1607年)の兄弟がロンドンで布商人として成功した[1]。ニコラスは1590年にロンドンのシェリフ、1599年から1600年にかけてはロンドン市長(Lord Mayor of London)も務め、1600年にナイトに叙されている。またマンチェスターに邸宅を購入した[1]。 その孫であるエドワード・モズレー(1616–1657)は、スタッフォードシャーのロールストン(Rolleston)とマンチェスターに土地を所有し、1640年7月20日にはイングランド準男爵位(スタッフォード州におけるロールストンのモズレー)準男爵(Baronet "Mosley, of Rolleston in the County of Stafford")に叙せられた。内乱中には王党派として行動したため、1643年のミドルウィッチの戦いで議会軍の捕虜となった。その後内乱に関与しないことを条件に釈放され、共和国政府に罰金を支払って没収された財産を返還された[1][2]。息子の2代準男爵エドワード・モズレー(1637年頃–1665年)は、1660年にランカシャーのハイシェリフを務め、1661年にはハルムの荘園を購入した。しかし子供がなかったため、準男爵位は彼の死とともに消滅した[3]。財産の方は争いがあったものの、結局アンソニー・モズレー(1537年頃-1607年)の曽孫でアンコーツに土地を所有するオズワルド・モズレー(1639年-1726年頃)に相続が認められている[1]。 その息子であるオズワルド・モズレー(1674年–1751年)は、1715年にスタッフォードシャーのハイシェリフを務め、1720年6月18日にグレートブリテン準男爵(スタッフォード州におけるロールストンのモズレー)準男爵(Baronet "Mosley, of Rolleston in the County of Stafford")に叙せられた[4]。初代男爵の死後は長男オズワルド・モズレー(1705–1757)が2代準男爵[5]、次男ジョン・モズレー(生年不詳-1779)が3代準男爵を継承したが、3代準男爵に子供がなかったため、この準男爵位も廃絶した[6]。 その後、2代準男爵と3代準男爵のはとこにあたるジョン・パーカー・モズレー(1732–1798)がグレートブリテン準男爵位(ランカシャー州におけるアンコーツのモズレー)準男爵(Baronet "Mosley, of Ancoats in the County of Lancaster)に叙せられた[7]。この準男爵位が2018年現在まで彼の男系男子によって継承されて現存している。 6代準男爵オズワルド・アーノルド・モズレー(1896–1980)は、イギリスファシスト連合の党首として知られる[8]。彼の先妻は初代カーゾン侯ジョージ・カーゾン(1859-1925)の娘シンシア・モズレー(1898年–1933年)だった [9]。カーゾン侯が叙された爵位の一つレイブンズデール男爵は、カーゾン侯の2人の娘を特別継承者と規定しており、カーゾン侯の死後、彼の長女(シンシアの姉)メアリー・アイリーン・カーゾン(1896–1966)が2代女男爵を継承し、彼女の死後は、シンシアと6代準男爵の間の長男ニコラス・モズレー(1923-2017)が3代男爵を継承した[10]。さらに1980年に6代準男爵が死去したことで7代準男爵位も継承した。以降アンコーツの準男爵位はレイブンズデール男爵と継承者を同じくしている。2018年現在の保持者は第4代レイブンズデール男爵・第8代準男爵ダニエル・モズレーである[10][11]。 歴代当主ロールストンのモズレー準男爵 (1640年)
ロールストンのモズレー準男爵 (1720年)
アンコーツのモズレー準男爵 (1781年)
家系図モズレー準男爵家
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |