メアリー・エンプレス
メアリー・エンプレス(Marie Empress, 1884年3月26日 – ?)は、イングランドの女優。無声映画や舞台に出演し、イギリスとアメリカ合衆国で活動していた。 1919年10月、乗船していた遠洋定期船(Ocean Liner)から姿を消した。1921年に死亡宣告がなされた。 生い立ち1884年、イングランドのバーミンガムに生まれた。生誕時の名前は「メアリー・アン・ルイーザ・テイラー」(Mary Ann Louisa Taylor)[1]。父親は請負業者であった。彼女は、自分は俳優エドマンド・キーン(Edmund Kean)の曾姪孫である、と主張することがあった[2]。 女優としてイングランドにて舞台女優として活動を開始し、男装して出演したり、寄席演芸芝居にも出演した[3]。1913年に上演された喜劇『The Little Cafe』[4]にてブロードウェイにも出演し、映画女優としても活動した。 『Old Dutch』(1915年)[5]、『The Stubbornness of Geraldine』(1915年)、『The Woman Pays』(1915年)、『Behind Closed Doors』(1916年)[6]、『Sibyl's Scenario』(1916年)、『When We Were Twenty-One』(1915年)[1][7]、『Love's Cross Roads』(1916年)[8][6]、『The Chorus Girl and the Kid』(1916年)、『A Lesson from Life』(1916年)、『The Woman Redeemed』(1916年)、『The Girl Who Doesn't Know』(1916年)[2][9]、『The Guilty Woman』(1919年)[10]にも出演した。 私生活1902年、歯科医のウィリアム・ホートン(William Horton)と結婚するも、1906年に別居し、1918年に法的に離婚が成立した。「熱愛」、薬物を服用していた疑い、身体には不可解な傷跡があり、激動の私生活を送った[3]。 映画の中では、彼女は男性を色気で誑かそうとする役柄を演じる傾向にあった。映画の標題においては、劇中での役柄と、必ずしも本人自身の品性とを識別していたわけではなかった[6]。 失踪1919年10月、キュナード(Cunard)の遠洋定期船『SS Orduña』に乗船していたエンプレスは姿を消した。彼女の姿が最後に目撃された場所は船内の特等室であり、ニューヨーク市に停泊する前日のことであった[3]。同乗していた役者仲間は、エンプレスが常に顔をヴェールで覆っており、黒いドレスに身を包んでいたことに気付いていた。 彼女は「海に落ちて溺死した」と推測されている[11][12]が、彼女がいつ死んだのかについては正確には分かっていない[13]。 1919年10月30日付の『The Times』誌の報道では、日曜日の夜、エンプレスはグラス一杯の水を(誰かから)受け取った。その翌朝、彼女は船内の客室から姿を消しており、寝台が使われた形跡も無かったという[11]。また、エンプレスは実際には死んでおらず、おそらくは売名行為の一環として、変装して下船したのではないか、との噂がしばらく続いた[14]。 1921年11月、メアリー・エンプレスの死亡宣告がなされた。彼女の死亡推定日は、1919年10月25日か、それ以降であろう、とされた[13]。 関連文献
参考
外部リンク |