ムングスズ

ムングスズ(モンゴル語: Mungsuz[1],? - 1267年)とは、モンゴル帝国に仕えたウイグル人文官の一人。『元史』における漢字表記は孟速思(mèngsùsī)。

概要

ムングスズは代々ビシュバリクに居住してきたウイグル人の家系で、幼い頃から利発なことで知られていた。モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンはムングスズの評判を聞くと自らの下に召し出し、「眼に火ある(nidün-tür-iyan γaltu)[2]」優秀な子であると評し、自らの末子トゥルイに仕えさせることとした。

トゥルイの死後、ムングスズはその未亡人ソルカクタニ・ベキに仕え、更にその後トゥルイとソルカクタニの息子クビライ(後の第5代皇帝)に仕えるようになった。クビライの兄でモンゴル帝国第4代皇帝モンケが急死すると、ムングスズはクビライに自ら即位するよう勧め、タガチャルイェスンゲカダアン東方三王家の支持を得たクビライは上都にて即位を宣言した。一方、モンケから首都カラコルムの統治を委ねられていたアリク・ブケも即位を宣言したため、クビライ派とアリク・ブケ派との間で帝位継承戦争が勃発することとなった。

帝位継承戦争の勃発以前、ムングスズはモンケによってブジルとともにジャルグチ(断事官)に任ぜられていたが、ブジルは帝位継承戦争の開始後、アリク・ブケ派に与しようとしていた。これを察知したムングスズは自らブジルを見張り、遂にアリク・ブケ派に寝返らせなかった。ムングスズがクビライに推挙した皆極めて優秀であり、ある時クビライはジャライル部のアントン・ノヤンとともに丞相に任じようとしたが、ムングスズは辞退したという。ムングスズは1267年(至元4年)に62歳で亡くなった。息子は9人おり、多くが大官に至ったという[3]

脚注

  1. ^ 松井2013,44頁
  2. ^ モンゴル語の慣用句で、『元朝秘史』によるとチンギス・カン自身が幼少の頃コンギラト部のデイ・セチェンにこのように評されたという(村上1970,92頁)
  3. ^ 元史』巻124列伝11孟速思伝,「孟速思、畏兀人、世居別失八里、古北庭都護之地。幼有奇質、年十五、尽通本国書。太祖聞之、召至闕下、一見大悦、曰『此児目中有火、它日可大用』。以授睿宗、使視顕懿荘聖皇后分邑歳賦。復事世祖於潜藩、日見親用。憲宗崩、孟速思言於世祖曰『神器不可久曠、太祖嫡孫、唯王最長且賢、宜即皇帝位』。諸王塔察児・也孫哥・合丹等、咸是其言。世祖即位、眷顧益重。南征時、与近臣不只児為断事官。及諸王阿里不哥叛、相拒漠北、不只児有二心、孟速思知之、奏徙之於中都、親監護以往、帝以為忠。数命收召豪俊、凡所引薦、皆極其選。詔与安童並拜丞相、固辞。帝語安童及丞相伯顔・御史大夫月魯那演等曰『賢哉孟速思、求之彼族、誠為罕也』。孟速思為人剛厳謹信。蚤居帷幄、謀議世莫得聞。至元四年卒、年六十有二。帝尤哀悼、特諡敏恵。武宗朝、贈推忠同徳佐理功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封武都王、改諡智敏。子九人、多至大官」

参考文献

  • 松井太「敦煌諸石窟のウイグル語題記銘文に關する箚記」『人文社会論叢』30号、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
  • 元史』巻124列伝11