マーク・ウェイン・クラーク (Mark Wayne Clark, 1896年 5月1日 - 1984年 4月17日 )は、アメリカ陸軍 の軍人 で、最終階級は陸軍大将 である。第二次世界大戦 では、フランス領アフリカへの侵攻を行ったトーチ作戦 での活躍が最も有名である。
生い立ち
1896年5月1日にクラークはニューヨーク州サケッツハーバーで誕生したが、幼少期の殆どは父親が駐在していたフォート・シェリダンのあるイリノイ州 で過ごした。母親はユダヤ系 ルーマニア人 の娘であったが、クラークは陸軍士官学校 在籍中に米国聖公会 から洗礼 を施された。[ 1]
士官学校時代、クラークは兵舎によく菓子 をこっそり持ち込んだことから、同級生からContraband (密売人)と言われた[ 1] 。1917年 4月に139人中110番目の成績で卒業し、歩兵少尉 に任命された。17歳で早くも士官学校から軍職を得たが、度重なる病気により任命期間が遅れた。第一次世界大戦 にアメリカ陸軍が急速に軍事拡大していく中、クラークは、1917年5月15日 に中尉 、同年8月5日 には大尉 へ昇格した。彼は第一次世界大戦中にフランス で第11歩兵連隊、第5歩兵師団の一員を務めた。ヴォージュ山脈 で戦傷 を負った彼は回復後、戦闘終了までアメリカ陸軍第1軍 の参謀本部に異動された。その際、ドイツ占領軍の第3軍 に仕えた。
戦間期に、クラークは、様々な軍職に就いた。1921年 から1924年 まで、アメリカ合衆国陸軍次官補佐、1925年 に歩兵学校で専門士官コースを修了、カリフォルニア州 サンフランシスコ ・プレシディオ に所在する第30歩兵連隊の参謀将校を務めた。その後インディアナ 州兵 の訓練教官を務め、その間の1933年 1月14日 に少佐 に昇進した。実に大尉に昇格してから15年以上経過していた。
クラークは1935年 から1936年 までネブラスカ州 オマハ の市民保全部隊 副官を務め、また1935年にアメリカ陸軍指揮幕僚大学 、1937年 アメリカ陸軍大学へ出向している。1940年 3月、ワシントン州 フォートルイス基地に任命された際、彼は陸軍大学の教師に選任され、同年7月1日 に中佐 に昇進した。クラークとレスリー・J・マクネアはルイジアナ州の数千エーカー の未使用の土地を軍事演習地として利用した。
1941年 8月4日 、陸軍が第二次世界大戦 の参戦に向けて躍起になる中、クラークは准将 へ2階級昇進を果たした。またワシントンD.C.の陸軍総司令部の作戦・訓練担当参謀長補佐に任命された。
第二次世界大戦
合衆国船艇アンコンに乗船するクラーク(1943年9月12日、イタリア・サレルノ 沖合)
アメリカが第二次世界大戦に参戦して一か月後の1942年 1月、クラークは陸軍地上部隊副参謀長、1942年3月にはゲージ・M・ミラー大将により新しく創設された司令部の参謀長になった。
1942年7月、彼は第2軍団司令官としてイングランド へ赴き、一か月後ヨーロッパ作戦戦域 司令官になり、1942年8月17日 には少将 に昇格した。1942年8月、北アフリカ戦線 における連合軍副司令官を務めた。トーチ作戦 として知られる北アメリカ侵攻に向けた部隊の訓練の計画や指導を行った。その準備段階として、1942年10月21日 とその翌日に、ヴィシー政権 の降伏と連合国と戦争協力するよう交渉しにアルジェリア のシャーシャルに進出した。
1942年11月11日 、クラークは中将 に昇進した。アメリカが初めて海外で野戦軍(第5軍、現在はアメリカ北方軍 陸軍部隊の1つ)を創設した際、彼はこの軍の司令官に任命され、1943年 9月のアヴァランチ作戦 に向けて訓練部隊を編成した。この作戦に関してバーナード・モントゴメリー によると、クラークの感覚的で策略もない計画のせいで、サレルノへの上陸に危うく失敗するところだった、とイギリスの歴史家から批判された。[ 2]
1944年 2月15日 にモンテ・カッシーノの戦い で、クラークは上官からの命令によりイタリアのモンテ・カッシーノ の修道院 へ爆撃を行い、破壊した[ 3] 。ところが実際、クラークとアルフレッド・グランザー 少将はこの行為の軍事的必要性に疑問を抱いた。
クラークの指揮能力に関して依然として議論されている。特にグスタフ防衛線での戦いでは、連合陸軍指揮官を務めたイギリス陸軍 ハロルド・アレキサンダー からの命令を無視し、1944年6月4日 に彼は第6軍をドイツ軍に占領されたローマ に侵攻し、解放した。しかしその結果、ドイツ軍を壊滅することに失敗し、敵軍が築いた防衛線が一層強化されてしまった。[ 4]
それにも関わらず、当時のローマ教皇 ピウス12世 はクラークがローマを解放してくれた事に感謝を示した[ 5] 。1944年12月、クラークは後の陸軍元帥となり、連合陸軍総司令部最高司令官に抜擢されたアレキサンダーの後任として第15連合陸軍の指揮官に任命された。彼が指揮官になる前、多数の国々から派遣され、文化の異なる軍人で構成された連合軍では口論が絶えなかったという[ 6] 。
1945年 3月10日 にクラークは大将に昇進した。終戦後、イタリア連合陸軍指揮官へ、その後駐オーストリア米国陸軍最高司令官となり、1947年にはアメリカ合衆国国務副長官となった。またロンドン とモスクワ で外相会議に出席し、オーストリア独立条約に関する会談を行った。同年6月、故郷に帰省しサンフランシスコ・プレシディオに本部を置く第5軍の指揮官を務めた。
1951年 10月20日 、トルーマン 大統領はクラークを、在バチカンアメリカ合衆国大使 に推薦したが、テキサス州選出のアメリカ合衆国上院 議員のトマス・テリー・コナリー とプロテスタント らからの抗議を受け 、クラークは大使の指名を1952年 1月13日 に辞退した。
朝鮮戦争
ムーラー作戦 で用いられたビラ。最初に亡命した北朝鮮パイロットには、当時の価格で10万ドル の報奨金を与えると書かれた。
朝鮮戦争 の間、クラークはマシュー・リッジウェイ 大将の後任として、1952-53年国連軍 司令官に任命された。
朝鮮戦争中、アメリカ空軍は戦闘能力の優れたソ連 製戦闘機 MiG-15 に苦戦を強いられていた[ 7] [ 8] 。そこで、クラークはMiG-15戦闘機パイロットを亡命 させ、報奨金と政治的自由を与える作戦(彼はこれをムーラー作戦 (英語版 ) と命名)を実行した。1953年 4月26日 夜、2機のB-29爆撃機 が鴨緑江 の盆地に、朝鮮語 のほかに中国語 、ロシア語 にも翻訳された120万枚のビラ を撒いた[ 9] 。また4月27日 、彼は中国 や北朝鮮 のパイロットに向けてラジオ放送 を行った[ 10] 。クラークは、この宣伝ビラが撒かれてから暫く、MiG戦闘機は出現しなかったという[ 11] 。天候の悪化による理由も考えられるが、彼はビラによる効果が発揮され敵軍は翻弄されたと思った。
しかしビラを撒いて4日後、大編隊を組んだ166機のMiG戦闘機が出現するなど、ビラによる影響は一時的なものであった[ 12] 。同年7月27日 にはクラークの署名により休戦 協定が締結されたが、休戦まで誰一人亡命しなかった。同年9月21日、北朝鮮から韓国 、ソウル の金浦空軍基地 にMiG戦闘機が着陸し、パイロットの盧今錫 中尉が亡命した。盧は10万ドルの報奨金を受け取ったものの、ビラの存在は知らなかったという[ 13] 。
退役後
クラークは1954年 から1966年 にかけて、サウスカロライナ軍事大学(通称The Citadel)総長を務めた。1984年4月17日、彼はこの大学のあるサウスカロライナ州チャールストンで死去し、この地で埋葬 された。また彼は、「Calculated Risk 」(1950年)、「From the Denube to the Yalu 」(1954年)と題した自叙伝 を執筆している。
受賞歴
クラークが受賞した賞や勲章を以下に示した。
その他
サウスカロライナ州チャールストンを走る州間高速道路526号線 は、彼の名を取って、マーク・クラーク高速道路とも言われている。また彼の名前を冠したマーク・クラーク橋 はワシントン州道532号線 上にあり、2010年8月17日にアメリカ本土とカマーノ島 を結ぶ橋として建設された。
ロサンゼルス東南東、ボイル・ハイツ (英語版 ) にあるエバーグリーン墓地 (英語版 ) には第二次世界大戦で戦死した日系二世兵の墓石が並ぶ一角に「殉国碑」が建立されており、そこにはクラークからのメッセージが刻まれている。これはモンテ・カッシーノの戦いの際、後にアメリカ軍の歴史上最多の受勲者を輩出した部隊として知られることになる第442連隊戦闘団 をクラークが(現場の最高責任者として)指揮したことに由来する。また、その殉国碑には当時のアメリカ陸軍の最高責任者であるドワイト・アイゼンハワー 合衆国大統領からのメッセージも刻まれている。
出典
^ a b Atkinson (2002), p.44.
^ Baxter (1999), p.58-9.
^ Clark may be seen introducing the John Huston 1945 film, "The Battle of San Pietro" on various sites, including [1]
^ Mark Clark triumphal entry into Rome
^ Pope Pius - thanks Clark for the liberation of Rome.
^ Katz (2003), p.27.
^ Friedman, Herbert. “OPERATION MOOLAH: The Plot to Steal a MiG-15 ”. 2011年2月28日 閲覧。
^ Futrell, Robert (1956). United States Air Force operations in the Korean conflict, 1 July 1952-27 July 1953 . Maxwell Air Force Base: USAF Historical Division. pp. 62
^ United States Air Force operations in the Korean conflict, 1 July 1952-27 July 1953 . Maxwell Air Force Base: USAF Historical Division. (1956). pp. 62
^ “International: Fat Offer” . Time . (May 11, 1953). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,935315,00.html February 27, 2011 閲覧。
^ Clark, Mark (1954). From the Danube to the Yalu . New York: Harper. pp. 207
^ Futrell, Robert (2000). The United States Air Force in Korea, 1950–1953 . Washington D.C.: Air Force History and Museums Program. pp. 653
^ Futrell, Robert (1956). United States Air Force operations in the Korean conflict, 1 July 1952-27 July 1953 . Maxwell Air Force Base: USAF Historical Division. pp. 62-63
外部リンク
1950-57
1957-72
括弧書きは在任期間