マルセロ・シルバ・ラモス
マルセロ・ダ・シウバ・ラモス(Marcelo da Silva Ramos、1973年6月25日 - )は、ブラジル・バイーア州サルヴァドール出身の元サッカー選手[1]。ポジションはFW。 通称はブラジルでは「マルセロ・ラモス」[1]、オランダと日本では「マルセロ」[2]。「マルセロ・シルバ・ラモス」はJリーグ入団時に公表した名前[2] であるため本表題でもそれに従う。 経歴現役前期7歳からサッカーを始め、1986年13歳の時にECバイーアアカデミーに合格し、1989年16歳の頃にはバイーアU-20でプレーしていた[1]。 1991年にトップチームに昇格すると翌1992年に本格的にデビュー、1993年には先発メンバーに抜擢され、サポーターのアイドルとなった[1]。1993年・1994年のカンピオナート・バイアーノ制覇に貢献した。 1995年、移籍したロナウドの代わりのFWを探していたクルゼイロECに移籍する[1]。同年のカンピオナート・ブラジレイロでチーム得点王、「Flecha Azul(青い矢)」と愛称で呼ばれた[1]。1996年カンピオナート・ミネイロおよびコパ・ド・ブラジル制覇に貢献した[1]。 また、1995年にはブラジル代表として国際Aマッチ1試合出場している。 1996年、またもロナウドの後釜としてPSVアイントホーフェンに移籍するも、ロナウドの代わりとしては十分な活躍ではなく1シーズンで退団する[1]。 1997年、コパ・リベルタドーレス制覇の切り札として古巣クルゼイロが獲得を熱望したことから戻ると、リベルタドーレスをはじめカンピオナート・ミネイロやレコパ・スダメリカーナ制覇に貢献した。1997年トヨタカップ対ボルシア・ドルトムント戦にも途中交代で出場している[3]。 現役中期2000年、新天地でサッカーをしたいと移籍を志願しSEパルメイラスへレンタルで入団したが、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督と良好な関係を築けずベンチが続いた[1]。そこで同年「サンドロ・ヒロシ事件」(コパ・ジョアン・アヴェランジェ参照)発生のためチーム編成が困難となっていたサンパウロFCへレンタル移籍しレギュラーに定着する[1]。 2001年8月、引退を表明したドラガン・ストイコビッチの代わりとして名古屋グランパスエイトに入団する[4]。翌2002年、ズデンコ・ベルデニックが新監督に就任、ベルデニックはイヴィツァ・ヴァスティッチをチームの軸としたため構想外となり、同年5月に退団する。 2002年、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督のもと3冠を目指して補強していた古巣クルゼイロに戻る[1]。 そこへ、2003年5月当時J2で昇格争いをしていたサンフレッチェ広島からオファーが届き入団し[2]、J1昇格に貢献したが、最も期待された得点は思ったより伸びなかったこともあり、1年で構想外になる。 2004年、コリンチャンスへ移籍するも、試合中の骨折により復帰に5ヶ月間かかり得点も奪えないことからメディアからバッシングを受け、退団を決意する[1]。 現役晩年2005年、マルセロが若年期を過ごしたバイーアのライバルチームであるECヴィトーリアへ移籍するも、半年をまたずに退団し、その後は2ヶ月間フリーだった[1]。 同2005年、コロンビアリーグのアトレティコ・ナシオナルに移籍する[1]。コパ・リベルタドーレス2006にも出場している[1]。 2007年、母国ブラジルへ戻りクラブを転々とした。年齢によるコンディション低下のため満足にプレーできる状況ではなくなっていた[1]。2012年末を持って現役引退した[1]。 今後は指導者への道を進む予定となっている[1]。 個人成績
脚注関連項目外部リンク
|