マルクス・アエミリウス・パウッルス (紀元前255年の執政官)
マルクス・アエミリウス・パウッルス(Marcus Aemilius Paullus)は共和政ローマのパトリキ(貴族)出身の政治家・軍人。紀元前255年に執政官(コンスル)を務めた。 経歴マルクス・アエミリウス・パウッルスはパトリキであるアエミリウス氏族の一員である。カピトリヌスのファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクス、祖父はルキウスである[1]。コグノーメン(第三名、家族名)のパウッルスは「短い」という意味である[2]。 古代の歴史家はアエミリウス氏族をローマで最も古い氏族としている[3]。その祖先はピタゴラス[3]、あるいは第二代ローマ王ヌマ・ポンピリウス[4]ともされる。 パウッルスに関する最初の記録は、紀元前255年に執政官に就任した時点である[5][6]。この頃は第一次ポエニ戦争の最中であった。前年に執政官マルクス・アティリウス・レグルスが率いるローマ軍が、カルタゴ本国近くで敗北しており(チュニスの戦い)、パウッルスは同僚執政官のセルウィウス・フルウィウス・パエティヌス・ノビリオルとともに、300隻[7][8]とも350隻[9]とも言われる艦隊を率い、残存ローマ軍を撤退させるためにアフリカに向かった。途中ローマ艦隊は同数[7]あるいは200隻[9]のカルタゴ艦隊と遭遇、海戦となった。この海戦でローマ艦隊は104隻を撃沈、30隻を乗員と共に拿捕するという勝利を収めた。カルタゴ軍の戦死・捕虜数は15,000[10]から35,000[11]とされている。膨大な戦利品は、兵士の間に分配された[5][10][12]。 この海戦の勝利の後、両執政官はアスピス(現在のケリビア)で残存ローマ軍を回収し、イタリアへと戻った。歴史学者はこの決断を間違いであったとしている。当時ヌミディアがカルタゴに反乱していたため、海戦の勝利に乗じてローマ軍はアフリカに上陸するべきだったとする。おそらくはノビリオルとパウッルスには前年のレグルスの敗北が頭に残っていたと思われる[13]。ローマへの帰途、シケリア(シチリア)沖でローマ艦隊は嵐に遭遇し、その大半を失ってしまった。ローマ艦隊の規模に関しては諸説あるが(オロシウス:300隻[14]、ポリュビオス:364隻[15]、エウトロピウス:464隻[16])、どの資料でも残存艦船数は8隻であったとする[13]。ポリビュオスによると、これは両執政官が先の海戦でのローマ海軍の勝利を拡大するため、シケリアのいくつかの都市を占領しようとし、季節が適切でなかったにもかかわらず、シケリア南岸を航行したためとしている[15]。 とはいえ翌紀元前254年に、両執政官はローマで凱旋式を実施している[5]。ノビリオルの凱旋式は1月18日に、パウッルスの凱旋式は翌1月19日に行われたと記録されている[17]。 紀元前219年と紀元前216年の執政官を務め、カンナエの戦いでハンニバルに敗れて戦死したルキウス・アエミリウス・パウッルスは息子である[18]。 脚注
参考資料古代の資料研究書
関連項目
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