マリー・ド・ブルボン(フランス語:Marie de Bourbon, 1539年5月30日 - 1601年4月7日)は、エストゥトヴィル女公およびサン=ポル女伯。
生涯
マリーはサン=ポル伯フランソワ1世とエストゥトヴィル女公アドリエンヌの娘で、サン=ポル女伯マリー・ド・リュクサンブールの孫にあたる。1546年、兄フランソワ2世が12歳で死去し、マリーは兄の跡を継いで4代エストゥトヴィル女公および4代サン=ポル女伯となった。
1557年6月14日に、マリーはソワソン伯・アンギャン伯ジャン・ド・ブルボンと最初の結婚をしたが、ジャンは同年8月10日にサン=カンタンで戦死した。2人の間に子供はいなかった。
サン=ポル伯領はこの頃神聖ローマ皇帝カール5世により占領されており、サン=ポル女伯の地位はマリーに利益をもたらさなかった。この占領は13年後の1559年4月5日に結ばれたカトー・カンブレジ条約とその後の交渉により終わった。フランス王アンリ2世はマリーとその母アドリエンヌにサン=ポル伯領を自分たちで取り戻すよう命じた。マリーがサン=ポル伯領を取り戻すのは、母アドリエンヌが1560年12月15日に死去した後、同年の年末のことであった。
1561年9月6日、マリーはヌヴェール公フランソワ1世・ド・クレーヴと再婚したが、翌1562年2月13日にフランソワ1世は死去した。今回の結婚でも子供はいなかった。
1563年7月2日、マリーはロングヴィル公・ヌーシャテル伯レオノール・ドルレアンと三度目の結婚をした。レオノールは1573年8月7日に死去し、マリーは夫の死後ヌーシャテル伯領を息子アンリ1世およびアンリ2世のために統治した。マリーは1576年に1度だけヌーシャテルの地を訪れている。
マリーは1601年に死去し、ヴァルモン修道院(英語版)に埋葬された。
子女
ロングヴィル公レオノール・ドルレアンとの間に以下の子女が生まれた。
- シャルル(1564年? - 1565年?)
- シャルル(1565年生?) - 早世
- マルグリット(1566年 - 1615年9月13日 パリ) - ”エストゥトヴィル嬢”
- アンリ1世(1568年 - 1595年) - ロングヴィル公
- レオノール(1569年生?) - 早世
- フランソワ(英語版)(1570年 - 1631年) - フロンサック公、サン=ポル伯
- アントワネット(1572年 - 1618年) - レッツ公シャルル・ド・ゴンディと結婚、レッツ公アンリ・ド・ゴンディ(英語版)の母。
- カトリーヌ(1572年? - 1638年9月29日 パリ) - 修道女、1604年にパリのサン・ジャック郊外のカルメル会修道院(fr)に寄進を行った。
- エレオノール(1573年 - 1639年) - ガセ女領主、1596年にトリニ伯シャルル・ド・ゴワイヨン・ド・マティニョン(1564年 - 1648年6月2日)と結婚
参考文献
- Charles Clémencet, Maur Dantine, Ursin Durand, L’art de vérifier les dates, 3. Ausgabe, Band 12, 1818, S. 408f
- Histoire du Pays de Neuchâtel, Band 2 De la réforme à 1815, Éditions Gilles Attinger, Hauterive, ISBN 2-88256-053-2
- Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln, Band 2, 1984, Tafel 28(マリー本人に関して), Band 3, Teilband 2, 1983, Tafel 311(マリーの子孫に関して)
外部リンク
- Myriam Volorio Perriard (Übers. Ekkehard Wolfgang Bornträger), Marie de Bourbon, in: Historisches Lexikon der Schweiz (HLS) (online, abgerufen am 4. Juni 2021)
- Étienne Pattou, Maison d‘Estouteville, S. 22 (online, abgerufen am 5. Juni 2021)
- Étienne Pattou, Maison et Duché de Bourbon, S. 10 (online, abgerufen am 5. Juni 2021)