マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア
マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア(ポルトガル語:Maria Leopoldina de Áustria, 1797年1月22日 - 1826年12月11日)は、ハプスブルク・ロートリンゲン家の成員でブラジル皇帝ペドロ1世の皇后(ペドロは短期間ではあったが「ポルトガル王ペドロ4世」でもあったのでポルトガル王妃)。ドイツ語名はマリア・レオポルディーネ・ヨーゼファ・カロリーネ・フォン・エスターライヒ(Maria Leopoldine Josepha Caroline von Österreich)。 ウィーン宮廷での生い立ち「ポルドル」の愛称で呼ばれるレオポルディナ大公女は1797年にウィーンで生まれた。彼女はオーストリア皇帝フランツ1世の5人目の子どもであり、四女であるが、フランツ帝の皇后であったナポリ王女マリア・テレジアが生んだ女子の中ではマリー・ルイーズの妹、ザクセン王太子妃となるカロリーネ・フェルディナンデの姉にあたる。 1807年4月、彼女がわずか10歳の頃に母后マリア・テレジアが急死した。その後、フランツ帝は年若いマリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステを後妻に迎えた。 皇后が気に入り、大いに称賛している詩人のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによると、1810年の夏に皇后とレオポルディナはカールスバートの湯治場への旅行で出会ったという。 幼い頃からレオポルディナは旺盛な好奇心を示した。彼女の専門分野は植物学、蝶類の研究および鉱物であった。まだ若いうちに、彼女は描画のレッスンを受け、彼女のまとまった描画はオーストリア国立図書館に収蔵されている。 彼女はフランス語、イタリア語とラテン語を完全に習得した。 またポルトガル語も教師が付き学びはじめるとたちまち習得した。 彼女の最愛の姉マリー・ルイーズが1810年にフランス皇帝ナポレオン1世と結婚すると、レオポルディナは彼女に手紙をしたためた。 ナポレオン自身は若い皇后とレオポルディナの親密な仲を意識し、手紙を書いた。
15歳のレオポルディナは典型的なハプスブルク家の身体的特徴を備えていた。金髪に青い目と「ハプスブルクの唇」と呼ばれる受け口であり、これは彼女を大いに悲しませた。マリー・ルイーズ大公妃がかつて大きな鏡をもらった時に、彼女は次のように答えた。
マリー・ルイーズは幼いナポレオン2世(のちのライヒシュタット公)を連れてウィーンの実家に戻ることを決めると、レオポルディナはこの幼い甥の面倒をよく見て、かわいがった。 1816年7月9日、レオポルディナはマリー・ルイーズと離れ離れになることになった。
婚約と結婚1816年にポルトガルの王太子ペドロとオーストリア大公女レオポルディナの結婚にまつわる交渉がはじまった。父帝フランツ1世はこの縁談の強力な支援者ではなかった。皇帝はペドロの不道徳な暮らしぶりと彼がてんかんもちであることを知っていた。しかし、皇帝を手中で操る外相クレメンス・メッテルニヒの強い要望でこの婚儀は整った。レオポルディナはイタリアのパルマ公国にいる姉のマリー・ルイーズにこう書いている。
花嫁の叔父のルードヴィヒ大公はマリー・ルイーズにこう書いている。
遠縁の叔父のラニエーリ大公はこの出来事に一層批判的で予見するかのような言葉を残している。
これらの危惧とともに大公の名は残ることになった。 1817年5月13日にレオポルディナはハプスブルク家が結婚式を挙げる教会、ウィーンの聖アウグスティヌス教会、でウィーンでの代理人によってペドロとの結婚式を挙げた。代理人として彼女の叔父のカール大公が務めた。 ブラジル王太子妃当時の王太子ペドロはリオデジャネイロにいた。そこに、レオポルディナは1817年11月には3ヵ月の長い旅を経て到着した。1817年11月、リオデジャネイロ市宮殿の王立教会で大いなる輝きのもとでレオポルディナとペドロの結婚式が執り行われた。 ここではペドロはがさつな男であったので、レオポルディナは急速に夫に対して影響力を増していった。ペドロはブラジルの独立宣言のすべての政治的な役割をレオポルディナと議論し彼女の助言に従っていた。1822年1月、ペドロは、父王のブラジルの王権を委任を、広範な自治へと導いた。この国の歴史上決定的な歩みはレオポルディナの影響力による。1822年のペドロがこの年にサンパウロへの旅行を決定したときに、彼はレオポルディナに首都の留守を任せる摂政妃とした。1822年9月、ペドロは、レオポルディナの懇願によって、ブラジルのポルトガルからの独立を宣言した。 ブラジル皇后1822年12月1日に帝政が樹立された。このとき、レオポルディナは、「母国の体制について直截かつ明確な考え」を持っていることを発表した。 レオポルディナはオーストリアの自然科学者と画家をブラジルに招いた。彼女は価値のある成果を上げたオーストリアとの合同探検を行わせた。科学についての彼女の功績は、たとえば彼女の名前にちなんで命名されたヤシ目ヤシ科の下の属名の一つ w:Leopoldinia Mart.がある。彼女がかつてウィーンで住まいとしていた建物に、彼女はブラジルの博物館の基礎を設けた。 レオポルディナとペドロの調和のとれた結婚はその後、1822年から陰鬱な陰が横たわるようになった。皇帝は旧知の女性ドミティリアのためにサンパウロへ旅行をしてきた。彼女は皇帝が寵姫として公にブラジル宮廷に入れた人物であった。 レオポルディナには不条理なことに、彼女はペドロの意向で皇后の第一女官に任命された。レオポルディナは、ドミティリアが皇帝との間に庶子である娘をもうけ、貴族に取立てられるのを経験しなければならなかった。娘たちは当然のごとく皇帝の嫡出子とともに育てられた。 皇帝夫妻の私的な言い争いは大きくなり、これにペドロはさほどの恐れおののかなかったが、レオポルディナに手を挙げるようになった。彼は宮廷で彼女を貶め、中傷するためにどのような状況も利用した。彼女はパルマの姉マリー・ルイーズに新婚後の自分について、辛く憂鬱にこう書いている。
1826年12月1日に、ペドロは夫婦げんかにさいし突然、妊娠しているレオポルディナのお腹を多数蹴ろうとし、それで死産が起きた。レオポルディナは10日後の1826年12月11日にリオデジャネイロのキンタ・ダ・ボア・ヴィスタにあるサン・クリストヴァン宮殿で他界した。人々は、ペドロの誤った扱いとそれによる死産が30歳を待たずにレオポルディナを死なせたと思った。彼女の死から3日後に、レオポルディナの遺体は アジュダ女子修道院に安置された。修道院が破壊されると1911年にサン・アントニオ修道院に遷された。 1954年9月7日に、ブラジルの独立記念日にサンパウロの独立記念碑に改葬された。 人物
子女
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