マリアによる福音書マリアによる福音書(まりあによるふくいんしょ)は、グノーシス主義の福音書文書の1つである。 初期キリスト教の『新約聖書』の外典としてこの名の書籍の存在が伝わっていたとされるが、不明点が多く、全容は知られていなかった。しかし19世紀に偶然に発見され、内容から外典とされていた『マリアによる福音書』であることが確認された。『ナグ・ハマディ写本』から発見された諸文書とともに、グノーシス主義の原典資料として貴重であるだけでなく、初期キリスト教や当時の地中海世界の宗教状況の研究にも重要な文書である。 この文書において登場人物の名前はマリハムと表記されている[1]。マリハムは、マリア(マリヤ)と訳されている[注釈 1]。一般的には、イエスの母マリアではなくマグダラのマリアと考えられている[注釈 2]。そのため、本文書は『マグダラのマリアによる福音書』とも呼ばれる。 研究史『マリアによる福音書』は、3世紀頃の初期キリスト教の教父文書などに言及が見られたが、原本は伝存しておらず実体が不明であった。ギリシア語の断片が2つほど見つかっている。 エジプトで発掘され、後にベルリンに運ばれたパピルスの冊子、いわゆる『ベルリン写本』の冒頭部分が『マリアによる福音書』の写本であることが1896年に判明した。十分な長さを持ったまとまった文書は、この写本から見つかったものが唯一のものである。ただし、諸般の事情があって公刊が遅れ、『ナグ・ハマディ写本』の発見後1955年になってようやくテキスト全体が公刊された。 『ベルリン写本』は『ナグ・ハマディ文書』とは別個の写本であるが、同様にサヒディック方言のコプト語で書かれており、ギリシア語原書より翻訳されたものと考えられている。前半および中ほど数頁に欠損があり、残っている部分にも欠落が多く、現存している写本は本来の文書のおそらく半分程度と思われる。 内容前半では、復活した救い主(イエス・キリスト)が弟子たちの質問に答えて啓示を述べ与える対話と、それを受けた弟子たちの間の反応が記されている。 マリアは文書後半部分に登場する。写本では「マリハム」と記されているが、この登場人物はキリスト教の『新約聖書』中に登場するマグダラのマリアのことであると考えられている。 後半部分の概要は次のようになっている。
前半から後半を通して全体を見ると以下のようにまとめることができる。 これまで、救い主は、聞く耳のあるもの(これはマリアらを指しているようだ)に対して、聞いたこともないような話をしていた。 そして、それらのことをいまだによく理解できていなかった弟子が、「世の罪とは何ですか」という、世の罪(イエスを刑死させた罪)と人の原罪とを暗にほのめかすような質問をした。(マリア福音書7)。そうしたところ、それに対してイエスは、「罪というものはない」という答えをした。そして、(罪よりの救済に関連した福音ではなく)人の内部にいる「人の子の王国の福音」を宣べ伝えよという命令を下した。 しかし、イエスの与える平安からは遠かった弟子たちは、「あの方を容赦しなかった世間の人がわれわれを容赦するはずがない」といって恐怖した。どうしていいかわからなかった弟子たちの中にあって、マリアは、イエスへの信を失わないでいた。そのマリアに対して、ペテロは、「私たちのまだ聞いていない話を聞かせてください」といった[注釈 3]。マリアは、人の中から出てくるものがその人を汚す[2]という言葉と関連したと思われる啓示が、イエスから啓示されたときの話をした。心の中から出てくる欲望や怒りから、人は自由になれるという話である。しかし、話を聞きたがったペテロは、その彼女の話を否定し、彼女の受けた啓示を否定した。それに加えて、「われわれに隠れてイエスが一人の女性とそのような話をしたのだろうか」、という推察を皆に述べた。それは、弟子を対象としたイエスの教えの、自力救済的な悪に関する啓示の多くを否定する結果となった。そして、弟子たちは、それぞれの考える「王国の福音」を宣べ伝えるために解散した。 マリヤ福音書をとりまく見解キリスト教的グノーシス主義について罪というものは存在しないという思想や、心魂が怒りや欲望から解放されると心の境地が上昇してゆくとする思想[3]は、他宗教にも共通して見出されるものである。これらの思想は特にキリスト教に依存しているとは思われないとされている。しかし、この書は西方系のキリスト教グノーシス主義であると位置づけられている[4]。また、グノーシス主義はどこにも存在しなかったと主張する研究者もいる[5]。イエスは、大衆に対してはたとえ話を多く用い[6]、弟子たちには、人のいないときにすべてを解き明かしていたとされている。マリアの受けたとされるイエスの啓示は、人のいないときにイエスが弟子に対してすべてを解き明かした教えである可能性がある。イエスの教えの中には、元々、心の中の悪に対しての認識を深めることが要求されていたことがあげられる。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、涜言、高慢、無分別などがあげられている[7][注釈 4]。こうした、心の中から汚れが出てくるという思想について、四福音書では、ペトロがこれを全く理解できなかったことになっている。それと同じような意味合いを持つマリアの話が理解できなかったから、ペトロはこれを否定した、と解釈することができる。また、それと関連したこととして、不浄なものや、穢れたものをペトロがただの一度も口に入れたことがないとしたのは、かなり後になってからである[9][注釈 5]。 異端排斥についてこの書の成立年代を特定することはできないとされている[4]ので、可能性としては、1世紀に成立したということも考えられる。 367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている[10]。この書に見られる、マリアとペトロの対立は、異端型キリスト教と正統派型キリスト教の対立の始まりであると解釈する見解もある[11]。これは、もともとのイエスの思想には、たとえを用いて大衆に神の愛を説くという面と、自己を見つめ、怒りや欲望から解放されると心の境地が上昇し、悟りにいたるという自力救済的な面とがあったことから、発生したと見ることができる。ペトロは、部分的にしかイエスの教えが理解できなかったと言えるようである。 この書は、弟子集団における女性指導者としての好ましいマリア像を提供しているとする見解がある[12]。また、マリアの福音書にある初期の教会の描写は、歴史的に正確であるとする見解もある[13]。 マリアはイエスの最も信頼されていた弟子の一人だとする見解がある[14]。イエスが刑死したときに、十字架のそばに男性の弟子がいたとは考えづらいこともあり、イエスにとっては、女性の弟子も弟子であるとしていたようである。しかし、ペトロにとっては弟子は男性のみという観念があったようである。 マリアによる福音書の信念
登場人物ペトロスなどが登場するが、キリスト教のペトロとは性格が異なる 日本語訳日本語訳は、『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』(1998年、岩波書店)に収録されている。ただし、日本語版の『ナグ・ハマディ文書』全4巻は、『ナグ・ハマディ写本』のみの翻訳ではなく、この写本群を中心にしているが、それ以外のグノーシス主義文献や、エイレナイオスなどの異端反駁文書からの抜粋も含み、『マリア福音書』も『ナグ・ハマディ写本』には含まれていないが、本訳書シリーズに収録されている。 脚注注釈
出典
参考文献
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