ドイツに鼓舞されて起こった残虐行為のうちの数件では、ポーランド人自身による支援や積極的な参加もあった。例えば1941年7月のイェドヴァブネ事件では国家記銘院(IPN)による最終結論として約300人[1](1969年にポーランドからアメリカに移住したヤン・グロス(en:Jan T. Gross)ははじめ1,600人と考えていた[2])のユダヤ人が地元の住民から苦痛を受けて殴り殺された。ユダヤ系ポーランド人共同体に対する虐殺行為にどの程度ポーランド人が関わったのかについては異論があるが、国家記銘院はイェドヴァブネの例と同様のポグロムが他に22箇所で発生したことを確認している[3]。虐殺の原因については議論が続けられているが、反ユダヤ主義、ポーランド・ソヴィエト戦争や1939年の東部辺境地域(Kresy)への侵攻でユダヤ人が侵略者だったソ連に加担したことに対する鬱積した憤り、あるいは単にユダヤ人の財産目当てといったことなどが挙げられる。ポーランド人が関与した23件のユダヤ人殺害事件は全て1941年に発生したが、これらの事件に関わった容疑で100人が戦後に起訴され、27人が有罪となり、うち4人が死刑の判決を受けている。
ドイツ占領下ではほとんどのポーランド人は生き残るために必死だった。ユダヤ人絶滅に反対したりそれを防ごうとしても、そういうことができる状態になかった。しかし実際は多くのポーランド人が命を賭けてユダヤ人をかくまったり、他の手段で支援した。ユダヤ人を支援した場合、支援を提供した本人だけでなくその一家全員、時には近所の人々も全て死罪とされたのはポーランドだけである。1942年9月にはゾフィア・コサック=シュチュツカ(en:Zofia Kossak-Szczucka)の主導で「ユダヤ人支援臨時委員会(Tymczasowy Komitet Pomocy Żydom)」が発足した。この組織は後に「ユダヤ人支援評議会(Rada Pomocy Żydom)」に発展し、「ジェゴタ(Żegota)」という暗号名で呼ばれた。ジェゴタに助けられたユダヤ人の数は不明だが、1943年のある時点ではワルシャワだけで2500人のユダヤ人の子供たちを保護していた(マルコヴァMarkowa村での例も参照)。こういった行動によって、ポーランド人からは最も多い「諸国民の中の正義の人(Righteous Among The Nations)」賞の受賞者が出ている。この賞はイスラエル政府のヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館(Yad Vashem)が授与するものである。
ポーランドにはドイツと協同する政府は存在しなかった。ポーランドにドイツが存在した期間、積極的にドイツに協力したポーランド人はいついかなる場合も(ホロコーストにおいても)他の地域と比べてもほとんど存在しなかった。ナチ協力者の数は例えばフランスよりも明らかに少なかった。これは部分的には、ポーランドにドイツ人を新たに定住させるというドイツの長期計画が一つの原因である。また、ドイツ当局がポーランド人協力者を募ることに興味を持っても、それをすればポーランドでの恐怖政治による支配を弱めることになるとしてヒトラーが強固に拒絶していたということもまたもう一つの原因である。実際、仕事あるいは補助的な役割を与えるといってポーランド人を募るプロパガンダ活動をしても、ポーランド人はほとんど全く興味を示さなかった。ドイツ占領の毎日の現実と比べてあまりにも大きな違いがあったからである。例えば絶滅収容所で補助的な勤務をしたうちでドイツ人でない者の大半はポーランド人でなく、ウクライナ人(例:ジョン・デミャニュク)かバルト三国の人々であった。ポーランドの地下抵抗運動である民族主義の国内軍(en:Armia Kolejowa)と共産主義の人民軍(en:Armia Ludowa)は通常は反ユダヤ的迫害行為への協力に反対し、そういった協力者は死刑にした。ポーランド亡命政府(pl:Polski Rząd na Uchodźstwie)もまた、1942年11月にはナチス・ドイツによって運営されている強制収容所で計画的な大量殺害が行われているとの情報を得てそれを明らかにしていた[4]。この事実はポーランド亡命政府の密使であったヤン・カルスキと、自ら進んでアウシュビッツ強制収容所に収容されて収容所の内部から抵抗運動を組織した国内軍のメンバーであるヴィトルト・ピレツキからの情報によって突き止められた。