ペルシア式カナート
ペルシア式カナート(ペルシアしきカナート)は、イランの世界遺産の一つである。紀元前のペルシアで生まれ、世界に伝播していった地下水路カナートは現代のイランにも数多く残るが、その中でも技術や立地の点で代表的と見なされる11か所のカナートを対象とする世界遺産である。 カナート→詳細は「カナート」を参照
後述の#登録経緯や#登録基準の背景になる点を中心として、カナートについて概説する。 カナートは山麓に母井戸を掘り、水平に近いなだらかな勾配で横坑を延ばしていき、離れた地域に水を供給するシステムである。その掘削には測量が必要不可欠であり、その技術が洗練されていった。横坑を延ばす際に通気のためや作業のために多くの縦坑を空けることになるので、上空から見ると点状に縦坑が連なって見える。 カナートは古代ペルシアで生まれたとされ、その始まりは紀元前2000年とも言われるが、正確な起源は不明である[2]。カナートについての最古の言及とされるのが、紀元前714年の事跡に関する楔形文字の記録である[2][3]。それには、アッシリアのサルゴン2世がウラルトゥに遠征した際、オルーミーイェでの攻撃の一環で、何らかの用水路と思しき構造物の出口を破壊した旨が記載されており[4]、これがカナートのことであろうと考えられている[3][5]。 カナートはアラビア語だが、そもそも大元の語源が何であるかは確定していない。アッカド語やヘブライ語で「葦」を意味していた言葉が変化したとする説や、もともとペルシア語だったものがアラビア語に入ったとする説などがある[6]。ペルシア語ではカレーズ(kariz, カーリーズ)であり、イラン東部やアフガニスタンなどではこの語が使われる[7][8]。カナートは更に東にも伝播し、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区の坎児井(カンアルチン)などと呼ばれる用水路も、大元はイランから伝播した技術と推測されている[9][10][注釈 1]。韓国の萬能洑(マンヌンボ)や日本のマンボも類似の用水路だが[11]、日本のマンボの起源については、カナートとの類似性に注目してトルファン経由で伝播したと見る説と[12][13]、カナートとの差異に注目して日本で独立して生み出されたとする説がある[14]。 また、イランより西にも伝播した。オマーン周辺へは、ペルシアの勢力が及んだ紀元前6世紀頃に伝播したと考えられており[15]、「ファラジ」(複数形アフラジ)と呼ばれている。「オマーンの灌漑システム、アフラジ」(オマーンの世界遺産、2006年登録)、「アル・アインの文化的遺跡群(ハフィート、ヒーリー、ビダー・ビント・サウドとオアシス群)」(アラブ首長国連邦の世界遺産、2011年登録)という2件のアフラジ関連遺産が、ペルシア式カナートより先に世界遺産に登録されている。また、降水に恵まれるレヴァントでは、あまりカナートは発達しなかったが[16]、パレスチナの世界遺産であるバティールの農業景観は、カナートと結びついている[17]。 北アフリカにはアラビア人を介してイスラームとともに伝播し、フォガラと呼ばれるその用水路は、リビア、アルジェリア、モロッコなどに見られる[18][注釈 2]。旧市街がモロッコの世界遺産になっているマラケシュも、カナートによって発達した都市である[19][20]。 カナートの技術はウマイヤ朝の拡大によってイベリア半島にも伝播した[20]。スペインの首都マドリードも、元はカナートによって開かれた町である[20][21]。「トラムンタナ山脈の文化的景観」(スペインの世界遺産、2011年登録)の農業景観も、カナートと結びついている[17]。ヨーロッパではドイツやボヘミアにも伝播したが、何よりもスペインでの定着は、大航海時代を経てアメリカ大陸への伝播をもたらした[22][注釈 3]。 イランの分も含めた、世界中にあるカナートの総数は5万とも言われる[17]。そのうち、発祥地となったイランに残るカナートの数は37,000以上[17]あるいは約4万[23]と言われ、2010年代半ばの時点で稼動中なのは25,000とされる[23]。カナートはテヘラン、ヤズド、エスファハーンといった主要都市を育んだだけでなく、古代にあってはペルシア帝国の成長を支えた[24]。また、民俗とも結びつき、「カナートの結婚」という儀式が残る地方もある。これはカナートの水が涸れないように、未亡人の中からカナートの妻を選び、婚礼を含む祭事を挙行するものである[25]。これは単なる伝統行事としてだけでなく、社会福祉としての側面も指摘される。というのは、妻に選ばれた未亡人は、対価として報酬を受け取り、最低限の生活保障がなされるからである[26]。 登録経緯ペルシア式カナートの世界遺産の暫定リストへの記載は2007年8月9日のことで、正式な推薦は2015年初頭に行われた[27]。推薦を踏まえ、文化遺産の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、同年9月9日から18日に専門家を派遣して現地調査を実施した[27]。このときに派遣されたのが日本の山内和也だった[1]。ICOMOSはこの現地調査や、イラン当局から追加で提出された書類なども踏まえた上で、「登録延期」を勧告した[28]。 ICOMOSは、前述のように、イラン以外のカナートそのものを対象とする遺産や、カナートによる農業景観がいくつも登録されていることから、なおもカナートが登録されるべきという価値の証明が不十分とした[29]。関連して、37,000以上あるカナートのうち、推薦された11件が本当に代表的なカナートと言えるのかも十分に示されておらず、構成資産や対象範囲の再考も求めた[30]。 しかし、第40回世界遺産委員会ではペルシア式カナートに対して、委員国から好意的な意見が相次いだ[1]。そして、ICOMOSの勧告にもかかわらず、疑いなく顕著な普遍的価値を持つと主張する委員国も現れ、議論の結果、逆転での登録が認められた[1]。イランは同じ年に認められたルート砂漠と合わせて世界遺産を21件とし、アジアでは単独3位の保有件数となった(前年は日本と同数で3位)。 登録名この物件の正式登録名は 英語: The Persian Qanat および フランス語: Le qanat perse である。その日本語名は以下のように揺れがある。
登録基準この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
構成資産以下に構成資産の概要を示す[注釈 4](緩衝地域の*印は、全く同じ範囲を共有していることを示す[5])。なお、特記事項は、推薦された際にどのような点で代表的とされたのかを指す[17]。
関連項目脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
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