ベルト・ド・コルヌアイユ(フランス語:Berthe de Cornouaille, 1114年 - 1158/64年)は、ブルターニュ女公(在位:1148年 - 1156年)。ブルターニュ公コナン3世とヘンリー1世の庶子マティルダ(モード)の娘。ブルターニュを支配したコルヌアイユ家の最後の人物である。
生涯
ベルトはブルターニュ公コナン3世の娘である。トレギエ伯スティーヴンの息子アラン黒伯と結婚し、ベルトは夫アランが1146年に死去するまでイングランドに住み、アランは後にリッチモンド伯となった。アランの死後、ベルトはブルターニュに戻り、ポルオエ副伯ウード2世と再婚した。父コナン3世は死の床で弟オエルを後継者とすることを拒否し、ベルトを後継者に指名した。コナン3世の死後、ベルトはブルターニュ女公位についた。
ベルトは1158年から1164年までの間に死去し、息子コナン4世がブルターニュ公位を継承した[注釈 1]。
家族
1138年までに初代リッチモンド伯アラン黒伯と結婚し[注釈 2]、3人の子女をもうけた。
- コナン4世 - ブルターニュ公、リッチモンド伯
- コンスタンス - ロアン子爵アラン3世と結婚
- エノグエン - サン=シュルピス女子修道院長
1148年ごろにポルオエ副伯ウード2世と再婚し、3人の子女をもうけた。
注釈
- ^ ベルトの息子コナン4世とベルトの2番目の夫ウードとの間に戦いが起こった。ウードは義弟オエル・ド・ナントとブルターニュを二人で分け合うことを決めていたとも考えられている。しかし、1156年末にコナン4世はウードに勝利し、母からの領地を確保した。
- ^ アラン黒伯はパンティエーヴル伯であった。また、イングランド内乱においてマティルダと対立しスティーブンを支持したことにより初代リッチモンド伯に叙せられた。ベルトとアランの結婚は、イングランド内乱においてブルターニュをスティーブン側につける意図があったとも考えられる。
- ^ Everardはウードとベルトの間には娘はアデライードの1人しかいなかった、としている。
脚注
参考文献
- Bryan, Elizabeth J. (2016). “Matthew Parker and the Middle English Prose Brut”. The Prose Brut and Other Late Medieval Chronicles. York Medieval Press
- Dunbabin, Jean (1985). France in the Making, 843-1180. Oxford University Press
- Everard, J. A. (2004). Brittany and the Angevins: Province and Empire 1158–1203. Cambridge University Press
- Vincent, Nicholas (2007). “The Court of Henry II”. Henry II: New Interpretations. The Boydell Press
- Warren, Wilfred Lewis (1977). Henry II. Yale University Press
- Cokayne, G. E. (1945). H. A. Doubleday, Geoffrey H. White, & Lord Howard de Walden. ed. The Complete Peerage. vol. x. London: George Bell & Sons