ベイト・ラヒア (Beit Lahia 又は Beit Lahiya ; アラビア語 : بيت لاهيا ) はガザ地区 の町で、パレスチナ国 北ガザ県 ジャバリア市 北部にある。ベイト・ハヌーン (英語版 ) に隣接し、イスラエル国境に近い。パレスチナ中央統計局 (英語版 ) によると、2017年の人口は89,838人である[ 1] 。
地理
「ラヒア (Lahia)」という言葉はシリア語 で、「砂漠」「疲労」という意味である[要出典 ] 。そこは砂丘に囲まれており、中には海抜55メートル (180フィート) のものもある。この地域はエジプトイチジク の大木があることで知られている。町は新鮮で甘い水[要説明 ] 、ベリーや柑橘類でも有名である[ 3] 。イギリスの東洋学者エドワード・ヘンリー・パルマー (英語版 ) によると、「ラヒア」は「ラヒ (Lahi) という人名から来ている[ 2] 。
歴史
古代ローマ時代
ベイト・ラヒアには古代の丘があり、近郊には放棄された村の遺構がある[ 3] 。ベテリア (Bethelia) として知られ、元々は異教徒の寺院があった[ 4] [ 5] 。
5世紀の歴史家ソゾメノス (英語版 ) によると、彼の一族は何世代にもわたりこの町に住んでいたが、アラフィオンという市民を奇跡により治癒した隠者ヒラリオン により、町の人々はキリスト教に改宗し始めた[ 6] 。360年頃に村に隠者の屋敷が築かれ、ヒラリオンを継承する4人の隠者が住んだ。東ローマ帝国 期の陶器が発見されている[ 7] 。
初期イスラム時代
サラート (イスラム教徒の日々の礼拝) の方角を示すミフラーブ 、つまりモスクの壁面窪みは、ベイト・ラヒア西方にあるファーティマ朝 末期からサラーフッディーン のアイユーブ朝 初期にかけて建てられた古代モスクに残り、オスマン帝国 期のガザ地域 (英語版 ) の他の2つのモスクにもある[ 3] 。ヤークート・アル=ハマウィー (1229年没) は「ベイト・リヒア」について「ガザ の近く」と記し、「果物の樹がたくさんある村」とも書いている[ 8] 。
マムルーク朝時代
ベイト・ラヒアのサリム・アブ・ムサラムの廟の大理石の板には、マルムーク朝 後期のナフス体 の文字が書かれている。それはガザ総督アクバイ・アル・アシュラフィの4人の息子たちの墓碑銘 で、イスラム歴897年第7月 (英語版 ) (グレゴリオ暦1492年4月29日-5月9日) に皆亡くなったのだった。それは1491年から92年にかけてパレスチナを襲ったペスト で没した子どもたちのことだと、当時の歴史家ムジル・アル・ディン (英語版 ) は書いている[ 9] 。
オスマン帝国時代
1517年、この村はパレスチナの他の地域と共に、オスマン帝国のダマスカス州 (英語版 ) に編入され、1596年には、ベイト・ラヒアはオスマン帝国のナーヒイエ (英語版 ) (課税台帳) にガザ地域の小地区として記入された。そこには70世帯のムスリム が住み、小麦、大麦、夏季作物、葡萄畑、果樹、山羊、蜜蜂の巣などの様々な農産物に25%の固定税率が課されていた[ 10] 。
17世紀から18世紀にかけて、ベイト・ラヒアの地域はベドウィン からの圧迫により、集落の衰退が顕著になった。放棄された村の住民は存続した村落へ移住したが、村の土地は近隣の村により耕筰され続けた[ 11] 。
1838年、聖書学者エドワード・ロビンソン は、ベイト・ラヒアがガザ地域にあるムスリムの村と記録した[ 12] 。
1863年5月、フランスの探検家ヴィクトル・ゲラン (英語版 ) が村を訪れた。彼は次のように書いている。
住民は250人で、細長い谷間にあり、よく耕作され、小高い砂丘に囲まれているので、とても暑い。この小さなオアシスは、四方を囲む砂丘の移動に絶え間なく脅かされていて、人々がその進行を止めようとしなければ、砂に埋没してしまうだろう
[ 13] 。
1870年頃のオスマン帝国の村落一覧には、ベイト・ラヒアは人口394人、家屋は118軒と載っているが、人口は男性のみである[ 14] [ 15] 。
1883年の『パレスチナ探査基金による西パレスチナ調査 (英語版 ) 』によると、ベイト・ラヒアは「砂漠の中に手入れの良い菜園と大きく古くからのオリーブのある小さな農村である。村には小さなモスクがある」と記されている[ 5] 。
パレスチナ委任統治期
ベイト・ラヒア 1931年 1:20,000
ベイト・ラヒア 1945年 1:250,000
イギリス委任統治領パレスチナ 政府の行った1922年のパレスチナ国勢調査 (英語版 ) によると、ベイト・ラヒアの人口は871人で全てムスリム であったが[ 16] 、1931年の国勢調査 (英語版 ) では人口1,133人、全員ムスリム、住居は223戸であった[ 17] 。
1945年のパレスチナ村落統計 (英語版 ) では、ベイト・ラヒアの人口は1,700人のムスリムで[ 18] 、土地面積は38,376ドゥナム だった[ 19] 。これによると、134ドゥナムの土地は柑橘類とバナナの畑、1,765ドゥナムは灌漑用地[ 20] 、住宅地は18ドゥナムだった[ 21] 。
1948年以降
2005年1月4日、ベイト・ラヒアの住人7人が殺害され、その内6人は同家族だった。これは彼らが働いていた農地へのイスラエル国防軍 (IDF) の砲撃によるものとされた[要出典 ] 。
2006年6月9日、IDFのガザ海岸爆発事件|en|2006 Gaza beach explosionにより8人の市民が殺害された。死者にはアリ・ガリヤ家の7人も含まれていた[ 22] 。IDFは自分たちの責任ではないと主張した[ 23] 。町はガザ紛争 (2008年-2009年) の間しばしば空爆の標的となり、イスラエルとハマース との戦場になっていた[いつ? ] [要出典 ] 。
ガザ紛争の中、1月3日に起きたイブラヒム・アル・マカドナ・モスク襲撃事件 (英語版 ) は、日没後のマグリブ礼拝 (英語版 ) 時にイスラエルのミサイルがイブラヒム・アル・マカドナ・モスクを襲撃したものだった[ 24] 。目撃者によると、その時200人以上のパレスチナ人 が中で礼拝をしていた[ 25] [ 26] 。6人の子どもを含む少なくとも14人が殺害され、60人以上が負傷した[ 26] 。
2023年パレスチナ・イスラエル戦争
2023年10月、パレスチナ・イスラエル戦争 が勃発。
同年12月、イスラエル国防軍はガザ市を完全包囲するために、ベイト・ラヒアへ向けて攻撃を開始した。イスラエルはハマースの武装勢力を攻撃するための空爆だと主張した[ 27] 。彼らは市内の何か所かを占拠したが、ベイト・ラヒア全体を占領したわけではなかった。そのかわり、彼らは町を囲み、周辺の村や農場を占拠した。2024年1月、イスラエルはガザ北部のほとんどから撤退し、パレスチナ管理下のガザ市との地上連絡が復活した。2024年4月、イスラエル軍はネツァリム回廊 を除くガザ地区全域から撤退し、アス=シアファなど北部の村をパレスチナの管理下へ戻したが、2024年5月にハマースが何か所かで再結成された結果、イスラエルのガザ北部への攻撃が再開した[ 28] 。
2024年12月、イスラエル軍は市内のマル・アドワン病院を「ハマースのテロリストの拠点」だとして周辺地域で作戦行動を展開。同月27日、強制的に医療関係者を病院外に退避させた[ 29] 。病院は市内最後の主要医療施設であったが、その後の火災により業務を停止した[ 30] 。
人口動態
ベイト・ラヒアの住人にはエジプト にルーツがある者がおり、一方でヘブロン山 (英語版 ) 地域から移住したベドウィンもいる[ 31] 。
脚注
^ a b Preliminary Results of the Population, Housing and Establishments Census, 2017 (PDF) . Palestinian Central Bureau of Statistics (PCBS) (Report). State of Palestine . February 2018. pp. 64–82. 2023年10月24日閲覧 。
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^ Dauphin, 1998, p. 881
^ le Strange, 1890, p. 414
^ Sharon, 1999, pp. 149 -151
^ Hütteroth and Abdulfattah, 1977, p. 144
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^ Robinson and Smith, 1841, vol 3, Appendix 2, p. 118
^ Guérin, 1869, p. 176 , as translated by Conder and Kitchener, 1883, SWP III, p. 234
^ Socin, 1879, p. 146
^ Hartmann, 1883, p. 129 also noted 118 houses
^ Barron, 1923, Table V, Sub-district of Gaza, p. 8
^ Mills, 1932, p. 2
^ Department of Statistics, 1945, p. 31
^ Government of Palestine, Department of Statistics. Village Statistics, April 1945. Quoted in Hadawi, 1970, p. 45
^ Government of Palestine, Department of Statistics. Village Statistics, April 1945. Quoted in Hadawi, 1970, p. 86
^ Government of Palestine, Department of Statistics. Village Statistics, April 1945. Quoted in Hadawi, 1970, p. 136
^ The Guardian : Death on the beach: seven Palestinians killed as Israeli shells hit family picnic , 10 June 2006
^ Haaretz : IDF probe: Gaza beach blast not caused by wayward army shell
^ Report of the United Nations Fact Finding Mission on the Gaza Conflict (15 September 2009). “HUMAN RIGHTS IN PALESTINE AND OTHER OCCUPIED ARAB TERRITORIES” . The Guardian (London). オリジナル の7 October 2009時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091007095811/http://image.guardian.co.uk/sys-files/Guardian/documents/2009/09/15/UNFFMGCReport.pdf 15 September 2009 閲覧。
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参考文献
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関連項目
外部リンク