プブリウス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前175年の執政官)
出自古代の歴史家は、紀元前508年にローマを包囲したエトルリア王ラルス・ポルセンナを暗殺しようとして捕虜となり、その面前で自身の右手を焼いて勇気を示した、伝説的な英雄であるガイウス・ムキウス・スカエウォラ(スカエウォラは左利きの意味)をムキウス氏族の先祖としているが、現代の研究者はこれはフィクションであると考えている[1]。実際、高官を出したムキウス氏族はプレブス系であり、歴史に登場するのは比較的遅く、紀元前220年にクィントゥス・ムキウス・スカエウォラが執政官に就任したときである(即ち、ガイウス以来300年近く歴史に登場していない)。プブリウス・ムキウス・スカエウォラは彼の長男であり、そのプラエノーメン(第一名、個人名)は祖父から受け継いでいる[2]。父の名前を継いだ弟のクィントゥス・ムキウス・スカエウォラは、紀元前174年の執政官である[3][4]。 経歴ムキウス氏族は、影響力あるプレブス一族であるフルウィウス・フラックス家と密接な関係を築いていた。紀元前179年にはプブリウスも弟のクィントゥスも、法務官(プラエトル)に就任しているが、同年の執政官はクィントゥス・フルウィウス・フラックスとその兄弟のルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスであった[2]。プブリウスは、プラエトルの中でも最も地位が高いとされるプラエトル・ウルバヌスとなっている[5]。加えて、元老院はローマ市内で発生した中毒事件に関して10マイル四方を調査するように命じた。この調査には、前年の補充執政官である別のクィントゥス・フルウィウス・フラックス(執政官クィントゥスの従兄弟)も調査に関わっており、フルウィウス・フラックス家にとって最優先の事項となった[2]。 紀元前175年、スカエウォラは執政官に就任。同僚は二度目の執政官となったマルクス・アエミリウス・レピドゥスであった。両執政官はイタリア北部へ出征し、ルナとピサを略奪したリグリア人と戦った。この戦争に関しては、リウィウスの『ローマ建国史』の該当部分が失われてしまっているため、ほとんど分かっていない。しかし、ローマ軍は勝利し、元老院は感謝祭を実施している。スカエウォラとリピドゥスはローマに戻って凱旋式を実施した[6]。この年の末、スカエウォラは翌年の公職選挙を監督し、弟のクィントゥスが執政官に当選するよう援助した。 次にスカエウォラが記録に登場するのは紀元前170年のことであり、ボイオーティアのフィスバ(en)との条約に元老院が署名する際に、スカエウォラが最初に署名していることから、元老院議員の中で最長老で影響力があったことが分かる[7]。 紀元前169年には監察官選挙に立候補するが、ティベリウス・センプロニウス・グラックスに敗北した[8]。その後、彼に関する記録はない[7]。 子孫スカエウォラには二人の息子があった。一人は同名のプブリウス・ムキウス・スカエウォラで、紀元前133年に執政官となっている。もう一人はプブリウス・リキニウス・クラッススの養子となり、プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスと名前を変えて紀元前131年の執政官となっている[3][9]。 脚注
参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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