プブリウス・コルネリウス・ケテグス
プブリウス・コルネリウス・ケテグス(ラテン語: Publius Cornelius Cethegus、生没年不明)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政務官。紀元前181年に執政官(コンスル)を務めた。 出自ケテグスはパトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族の出身であるが、コルネリウス氏族はローマでの最も強力で多くの枝族を持つ氏族でもあった[1]。ケテグスのコグノーメン(第三名、家族名)を持つ人物としてはマルクス・コルネリウス・ケテグス (紀元前204年の執政官)が記録に現れる最初の人物である。カピトリヌスのファスティによれば、ケテグスの父プラエノーメン(第一名、個人名)はルキウス、祖父はプブリウスである[2]。コルネリウス・ケテグス家の系譜はあまりよく分かっていない[3]。 経歴紀元前189年、ローマ・シリア戦争後の新たな国境を定めるために小アジアに10人からなる使節が派遣されるが、ティトゥス・リウィウスはその9番目に、プブリウス・コルネリウス・レントゥルスの名前を記している[4]。この当時にこの名前をもつローマ人は紀元前203年のプラエトル(法務官)プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスのみである。しかし、彼の経歴と年齢を勘案すると、もっと名簿の上位にあって良いはずだ。このため、この人物はレントゥルスではなく、ケテグスではないかと推察されている[5][6]。実際、リウィウスは紀元前181年の執政官ケテグスをも、プブリウス・コルネリウス・レントゥルスと誤記している[7]。しかし、プラエトルのレントゥルスのことだとする学者もいる[8]。 紀元前187年、アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクスと共にアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した[5][9]。この年のローマ大祭の最中にキルクス・マクシムス(大戦車競技場)の柱の固定が十分でなく、ポッレンティア女神の像の上に落ちて倒れてしまったため、悪い前兆とみなされ、元老院は祝祭を一日延長し、また倒れた像の代わりに2つの像を建て、そのうちの1つは金メッキされるべきだと決定した[10]。 紀元前185年、プラエトル(法務官)に就任したが、役割分担に関して不明である[11]。翌年のプラエトルであるとする説もある[12]。 紀元前181年、執政官に就任、プレプス(平民)の同僚はマルクス・バエビウス・タンピルスで、両人ともリグリアを担当した[13]。リウィウスやそれを参照したと思われるウァレリウス・マクシムスはこの年の執政官をプブリウス・コルネリウス・レントゥルスとしているが[7][14]、これは明らかな誤りである[5][15]。元老院の決定により、両執政官は共和政ローマで初めて選挙の収賄罪に関する法案を民会に提出した[16]。 翌紀元前180年、同僚と共にプロコンスル(前執政官)としてインペリウム(指揮権)を維持し、リグリアを担当した[17]。ケテグスとタンピルスは現地のアプアニ族を服属させ、彼らをサムニウムに移住させた。これ以降、リグリアはリグリア・コルネリウスおよびリグリア・バエビウスと呼ばれるようになる。ローマに戻ると、両執政官は凱旋式を挙行した(但し、凱旋式のファスティのこの部分は欠落)。軍事的勝利ではない理由で凱旋式を実施したのは、彼らが初めてであった[18]。 紀元前173年、リグリアとガリア・キサルピナの入植者に個人的土地分配するための十人委員会に、マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前187年の執政官)、ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (紀元前171年の執政官)らと共に選出された[19]。ローマ市民には一人あたり10ユゲラ(約2.5ヘクタール)、ラテン市民には3ユゲラ(0.75ヘクタール)を分配することとした[20]。 脚注
参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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