1936年、フィッツジェラルドはコネチカット州の寄宿学校エセル・ウォーカー・スクール(英語版)に通い始めたが[11]、イェールまでヒッチハイクしようと学校を抜け出したために退学させられた[12]。その後ヴァッサー大学に通い、1942年に卒業している[13]。大学を中退し学位を取り損ねた父スコットは、彼女に同じ過ちを犯させまいと、厳しい授業を取って熱心に勉強するよう諭す手紙を何通も書き送っている[11]。"Things to Worry About"(意味:気に掛けておくべきこと)として知られるスコットの文章は、スコティーに宛てて書いた手紙の一節である[14]。父は彼女が在学中の1940年に死去し、フィッツジェラルドは大学を辞めて文筆業に就くとしたが、一族で初めての学士号を取らせたがっていた父を知る周囲の勧めで考え直した[1]。遺言書の認定に時間がかかり、彼女は無収入となってしまったが、父のエージェントを務めていたハロルド・オーバー、担当編集者だったマックス・パーキンズ、遺言執行人で父の学友だったジョン・ビッグズ、ジェラルド・マーフィーが基金を作り、大学卒業までの資金を確保した[15]。中でもオーバーはスコットの死後、母ゼルダとスコティーの世話を最後まで引き受け[16][17]、彼女の結婚式代金をパーキンズと折半して負担した。
私生活とキャリア
スコティーと彼女の最初の夫であるサミュエル・ジャクソン・"ジャック"・ラナハン(英: Samuel Jackson "Jack" Lanahan)は、1950年代から1960年代にかけて、ワシントンの司会者として人気を博した。ラナハンはワシントンの有力弁護士であり、ふたりの間には4人の子どもが生まれた[13]。この間スコティーは、アメリカ多発性硬化症協会 (National Multiple Sclerosis Society) ワシントン支部が行う毎年の上演のために、ワシントンの社会情勢を切り取るミュージカル・コメディをいくつか書いている。彼女の作品 "Onward and Upward with the Arts" は、監督デイヴィッド・メリック(英語版)によって、ブロードウェイ公演も検討された。
ラナハンとの間には、トーマス・アディソン・"ティム"(英: Thomas Addison "Tim" Lanahan)、エレナー・アン(英: Eleanor Ann "Bobbie" Lanahan)、サミュエル・ジャクソン・ジュニア(英: Samuel Jackson Lanahan, Jr.)、セシリア・スコット(英: Cecilia Scott Lanahan)の4人が生まれた。長男トーマス(愛称ティム)は27歳で自殺した。長女エレナー・"ボビー"・ラナハンは、芸術家・作家の道を進み、母スコティーの伝記 "Scottie, The Daughter of ... The Life of Frances Scott Fitzgerald Lanahan Smith"(1995年)を出版した[13]。スコティーはグロウヴ・スミス(英: Grove Smith)と2度目の結婚をしたが、1980年に離婚した[18]。