フェオドシヤ・ムスチスラヴナ
フェオドシヤ(ロスチスラヴァ)・ムスチスラヴナ(ロシア語: Феодосия(Ростислава) Мстиславна, 1200/5年頃 - 1241年5月4日/1244年5月5日)は、ガーリチ公ムスチスラフの娘である。 生涯1214年、フェオドシヤはウラジーミル大公ヤロスラフの二番目の妻となった。諸説あるが、ヤロスラフの男子のうち7人から9人、さらに女子2人はフェオドシヤの子と考えられている。これらの子の中には後のウラジーミル大公アレクサンドル(アレクサンドル・ネフスキー)も含まれている[1]。 没地はノヴゴロドであり、エヴフロシニヤ(エフロシニヤ)という修道名が記されている。その没年については1244年5月5日とするものと、1241年の5月4日とする史料がある。埋葬地もまた、ノヴゴロドの修道院とするものと、ウラジーミルの教会とするものとがある。 出典 |