フィンランド共産党
フィンランド共産党(フィンランドきょうさんとう、フィンランド語: Suomen Kommunistinen Puolue、スウェーデン語: Finlands kommunistiska parti、略称:SKP)は、フィンランドにかつて存在した共産主義政党。 コミンテルン支部として発足したが、1944年までフィンランド国内では非合法とされていた。そのため、1920年代にはフィンランド社会労働党(1920年 - 1923年)並びに社会主義労農選挙団(1924年 - 1930年)へ参加(その後、両者は何れも政府により活動が禁止)。1944年には新たな前衛組織として、フィンランド人民民主同盟(SKDL)を結成するに至る。 歴史結党から活動初期1918年フィンランド内戦にて、労働者や農民らから構成される左派赤衛軍が敗北。フィンランド社会民主党は赤衛軍を支援していたため、一部の党幹部がソビエト連邦に亡命し、そのうち数名がモスクワにて結党した。 フィンランド国内では1944年まで非合法とされており、同年傘下組織としてフィンランド人民民主同盟が結成され、継続戦争以後はSKPが同盟を取り仕切る事となる。 冷戦期1944年から1979年にかけて、SKDLの支持率が17%から24%もあり、冷戦期に「黄金時代」を迎えた。1945年に行われた戦後初の議会選挙では、51議席を得て第一党に躍進[1]。与党となる事も数度あり、内閣12閣僚のうち8閣僚を送り出すに至るも[1]、共産系の首相や大統領は誕生していない。 1960年代半ばには、アメリカ合衆国国務省が党員数を約40000名と推計している(当時の労働人口の1.44%に当たる)[2]。しかし、少数派のスターリン主義者(タイストイスト)による内部抗争のため、次第に地盤を失うと共に弱体化。タイストイストが党のユーロコミュニズム寄りの姿勢をしばしば攻撃するなど、党内にしこりを残す結果となった。 1985年から翌年にかけては、タイストイスト多数の他、数百もの党組織や数千名もの党員が除名を余儀無くされる。除名者はフィンランド共産党 (統一派)(SKPy)を結成するに至った。 解党ソビエト連邦の崩壊に伴い、党内でもイデオロギー的対立が深まり、内部抗争が激化。1990年には、大多数の党員やSKDLの関係者が左翼同盟を結成するに至る。このため、1992年に財政破綻を来たした末、解散となった。 なお、SKPyはSKP解散後も存続し、1997年に「フィンランド共産党」と改名するものの、議会において嘗てSKPが擁していた議席を取り戻せていない。2007年の選挙における得票率は0.7%であった。 関連団体青年組織としてフィンランド共産主義青年同盟(SKNL、1925年 - 1936年)が存在。第二次世界大戦後はフィンランド民主青年同盟(SNDL、世界民主青年連盟加盟)と名を変え活動を行った。 日本共産党との関係1983年6月19日から22日にかけて、日本共産党の不破哲三委員長(当時)を団長とする代表団が訪芬、アルヴォ・アールト議長と初の公式会談を実施[3]。一方、SKPも1985年の日本共産党第17回大会に来賓として出席している[4]。 歴代党首
関連項目脚注
外部リンク
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