フィリップ・ファールバッハ1世
フィリップ・ファールバッハ1世(ドイツ語: Philipp Fahrbach der Ältere, 1815年10月25日 - 1885年3月31日)は、オーストリアの音楽家。 ヨーゼフ・ランナー、ヨハン・シュトラウス1世の存命時から「第三」のウィンナ・ワルツの作曲家として将来を嘱望されており、オーストリア帝室の宮廷舞踏会音楽監督も務めた。 なお、2016年現在、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートに彼の作品が採り上げられたことはない。 なお、欧米ではふつう「フィリップ・ファールバッハ・シニア(Philipp Fahrbach Sr.)」と言われる。 生涯1815年10月25日、オーストリア帝国のウィーンで誕生。4歳でヴァイオリンを弾き始めるなど、幼少期から音楽的才能の片鱗を示した[1]。彼の兄弟はいずれも音楽的な才能があり、フィリップはのちに「兄ヨーゼフ・ファールバッハは、私に7歳のときから、かなりみっちりと手風琴の基礎を教えてくれたので、私はすでにコントラバスを弾きこなせるようになっていた。」と回想している[1]。もう一人の兄フリードリヒ・ファールバッハと弟のアントン・ファールバッハも音楽家である。 1825年、10歳のときヨハン・シュトラウス1世の楽団に所属し、フルート奏者を務めた[1]。シュトラウス楽団に所属していたとき、シュトラウス1世はフィリップのいくつかの作品を初演してくれたという[1]。20歳のときに自身のオーケストラを持って独立してその名を知られるようになり、ランナーとシュトラウス1世に次ぐ第三者とまで言われるようになった[1]。独立後もシュトラウス1世との関係を保ち、彼の『ドイツ統一行進曲』や『ラデツキー行進曲』などの弦楽オーケストラ編曲作業にも携わった。 シュトラウス1世が1849年に没すると、その後任として宮廷舞踏会音楽監督をオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世より拝命した[2]。その他にもホッホ・ウント・ドイチュマイスター連隊の軍楽隊長を務めるなど、ヨハン1世の息子で「ワルツ王」として知られるヨハン・シュトラウス2世の好敵手であった[1]。彼の作品の中ではレントラー風ワルツ『ウィーンの森のツノメドリ』(作品61)が特によく知られる。同名の息子フィリップ・ファールバッハ2世もワルツの作曲家として活動しており、親子そろってワルツ王の手強いライバルであった。 作品ワルツ
ポルカ
ポルカ・シュネル
出典参考文献 |