フアン・デ・メンドーサ・イ・ルナ第3代モンテスクラロス侯爵フアン・デ・メンドーサ・イ・ルナ(Juan de Mendoza y Luna, III Marquis of Montesclaros、1571年 - 1628年10月9日)はスペインの貴族で、第10代ヌエバ・エスパーニャ副王(1603-1607年)、第11代ペルー副王(1607-1615年)をつとめた。 生涯フアン・デ・メンドーサ・イ・ルナはスペインのバリャドリードで生まれた[1]。初代サンティジャーナ侯爵イニゴ・ロペス・デ・メンドーサの子孫であり(初代ヌエバ・エスパーニャ副王アントニオ・デ・メンドーサや第5代副王ロレンソ・スアレス・デ・メンドーサと同様)、またサンティアゴ騎士団長でフアン2世の寵臣だったアルバロ・デ・ルナの子孫でもある。 父が没してから生まれたため、またいとこの第5代インファンタド公爵 (Íñigo López de Mendoza y Mendoza, 5th Duke of the Infantado) によって育てられた[1][2]。非常に早くから軍人として働き、アルバ公爵フェルナンド・アルバレス・デ・トレドの下でポルトガル王位継承戦争(1580-1583)に参加した。1591年にサンティアゴ騎士団への入団を認められた[1][2][3]。1601年にはセビリア市長(asistente)に任命された[1][2]。 ヌエバ・エスパーニャ副王1603年、第9代ヌエバ・エスパーニャ副王のモンテレイ伯爵ガスパール・デ・スニガがペルー副王に転任し、メンドーサ・イ・ルナが後任のヌエバ・エスパーニャ副王に任命された[2]。同年10月26日にメキシコシティ入りした[1]。 彼はメキシコシティで多くの公共事業を興した[2][1]。メキシコシティは1604年8月に洪水に襲われ、その対策としてのダムの建設や道路の修復を行った[1][3]。新たな水道をチャプルテペクから引いた[1]。 在職中に汚職の告発を受け、監察官による調査が行われたが、有罪とすべき証拠は見つけられなかった[2][1]。 ペルー副王1606年にモンテレイ伯爵が没したため、後任のペルー副王に転任することになった[1]。ヌエバ・エスパーニャ副王は第8代のルイス・デ・ベラスコが再任になった[1]。1607年12月にリマに到着した[1]。 副王はリマに会計審査会とコンスラード(司法機関)を設立した[2][1]。またチリのサンティアゴにアウディエンシアを設立した[2][1]。彼は公文書を収集し、国勢調査を行った[1]。当時スペイン王室は財政難に陥っており、彼の主な関心はスペインに送る銀の産出量の増大だった[1]。 1615年にはオランダのヨリス・ファン・スピルベルゲンの攻撃に敗北したために非難された[1]。 晩年1616年に退任してスペインに戻った。その後枢密院 (Spanish Council of State) の一員に任命され[2]、財務議会 (es:Consejo de Hacienda) の長、アラゴン議会 (es:Consejo de Aragón) の長に昇任した[2][1]。 脚注
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