1888年、化学工学の学位を取得し大学を卒業し、C. Bischof教授の助手として化学科での研究を続けた。彼の指導のもと、「立体化学のハンドブック」("Handbook of Stereochemistry") の編集を開始し、1894年に発表された。このハンドブックを作成するにあたり、多くの化学合成と特性評価を行う必要があり、結果として立体化学のみに関する57のジャーナル論文が作成され、1899年から1900年にロシア及び外国ジャーナルに57のアーティクルが掲載された。また、物理化学の分野で研究を続け、1899年に非水溶媒のイオン化力が誘電率に正比例することを確立した。1890年と1891年の夏休みにライプツィヒ大学のオストヴァルトを訪ね、1891年9月にそこで特定の有機酸の親和性の値に関する修士論文のディフェンスを行った。オストヴァルトは個人講師としてライプツィヒに留まることを提案したが、ヴァルデンはリガでのより良いキャリアを望み辞退した[3][5]。
1896年にリガ工科大学に改革が起きた。以前は全ての教育がドイツ語で行われ、ヴァルデンはロシア語でいくつかのコースを提供する唯一の教授であったが、それ以降ロシア語が公用語になった。この変更によりロシア政府から助成金を受け取ることができ、卒業生がロシアでの地位を得るのに役立った。これらの改革はヴァルデンとオストヴァルトという非常に珍しい共同研究をもたらした。ヴァルデンは化学科を再建しており、オストヴァルトは例としてライプツィヒの化学研究所の青写真を送った。1910年5月、サンクトペテルブルク科学アカデミーの会員に選出され、1911年にアカデミーの化学研究所(1748年にミハイル・ロモノーソフにより創立された)を率いるためにサンクトペテルブルクに招待された。1919年までその地位にあった。例外として、より良い研究の可能性があるリガに滞在することを許されたが、アカデミーの懐疑と研究指導のためにほぼ毎週電車でサンクトペテルブルクへ通っていた。1911年から1915年の間に、"Proceedings of the Academy of Sciences" に非水溶液の電気化学に関する14個のアーティクルを発表した。特に1914年に初の室温イオン液体、すなわち融点12℃の硝酸エチルアンモニウム (C2H5)NH+ 3·NO− 3 を合成した[1][3][5][7]。
晩年は化学史に焦点を当て、1万冊以上の他に類を見ない蔵書を収集した。1942年のイギリス軍によるロストック空爆により、蔵書と家は破壊された。その後、ベルリンに移り、フランクフルト・アム・マインに移り、そこで地元の大学の化学史の客員教授となった。第二次世界大戦終結時にはフランス占領地域におりソ連占領下にあるロストック大学をクビになり、収入減を失った。ドイツの化学者たちが繕った質素な年金で生きながらえ、テュービンゲンでときどき講義をしたり、回想録を書いたりした[4]。1949年、彼の最も有名な著作である『化学史』"History of Chemistry"を著した。1957年に93歳でGammertingenで死去した。回想録は1974年に出版された[3][5]。
^ abcdefgVolkov VA, Raskin NM, Stradynja JP New Materials for a Biography of P. Walden, Izv. Acad. Science of Latvia. SSR, 1987, No. 9; Stradynja JP, Solovyov YI Pavel Ivanovich (Paul) Walden: 1863-1957. Moscow, 1988. (in Russian)
^P. Walden (1914). “Molecular weights and electrical conductivity of several fused salts”. Bull. Russian Acad. Sci.: 405–422.
参考文献
A. G. Morachevskii (2003). “Academician Pavel Ivanovich Walden (on 140th Anniversary of His Birthday)”. Russian Journal of Applied Chemistry76 (7): 1186–1190. doi:10.1023/A:1026399420965.