バーレブ・ライン
バーレブ・ライン(ヘブライ語: קו בר לב, Kav Bar Lev; アラビア語: خط بارليف, Khaṭṭ Barlīf, 英語: Bar-Lev Line)あるいはバーレブ線とは、1960年代末にスエズ運河沿いに構築されたイスラエルの対エジプト拠点群・およびその周辺施設の総称である。建設当時のイスラエル軍参謀総長ハイム・バーレブ(ヘブライ語: חיים בר-לב, 英語: Haim Bar-Lev,1924年-1994年) の名を冠してバーレブ・ラインと称する。 北は地中海から南はスエズ湾にまで至る、南北170キロメートル、東西30キロメートルの長大な拠点群である。 歴史1967年6月の第三次中東戦争によってイスラエルはエジプト領のガザ地区とシナイ半島全域を占領した。イスラエル本土とは遠く離れたシナイ半島でイスラエル軍と対峙することになったエジプト軍は以前のように直接イスラエルに脅威を与えることは非常に困難になったが、代わりに同年7月から消耗戦争[1]と称して比較的小規模なコマンド部隊の襲撃や砲撃によってイスラエルへ圧力を加え始めた。イスラエル軍は運河東岸に1個増強機甲旅団を配置していたが、エジプト軍によって陣地が攻撃され、(イスラエルの基準からすれば)少なからぬ死傷者が出ていた。 こうした中、イスラエル軍の参謀総長ハイム・バーレブ中将はアブラハム・アダン少将を委員長とする対策委員会に運河東岸での防御陣地構築と防衛計画についての研究を命じた。後日、アダンらの出した計画は運河東岸に敵の監視兼拘束にあたる拠点を11キロメートル間隔で15個配置し、その後方に師団規模の機動部隊を配置、さらに支援施設を構築してエジプト軍の小規模・大規模な攻撃両方に対応できるようにするというものであった。 当時参謀本部訓練局長であったアリエル・シャロン少将と機甲総監のイスラエル・タル少将は東岸拠点の構築に反対し、代わりに機械化偵察部隊を巡回させるべきだと主張したが、バーレブと南部軍司令官イェシャヤフ・ガビッシュ少将はアダンの案を拠点をさらに増やし33個にすることで採用し、消耗戦争が小康状態になっていた1969年1月には建設が開始された。 エジプト軍は1969年3月に攻撃を再開した。この時に完成していた拠点はわずか3個であったが、エジプト軍の砲撃に対して拠点のバンカーは高い攻撃力を発揮し、コマンド部隊の襲撃にも十分対応することができた(消耗戦争自体は1970年7月に終結した)。1968年末には拠点群と支援施設の構築はほぼ完了したが、その後も補強は続けられた。 1970年1月に拠点構築に懐疑的であったシャロンが南部軍司令官に就任すると、拠点の「間引き」を実施し、兵員を配置する稼働拠点を16個に減らした。 1973年5月にシャロンの後任として南部軍司令官に就任したシュムエル・ゴネン少将は放棄されていた拠点の整備・再稼働を進めたが、10月に第四次中東戦争が勃発する。 拠点群はエジプト軍の拘束を行えなかったばかりか包囲され、降伏・放棄されたものがほとんどであった上、拠点救援に向かった機甲部隊はエジプト軍の対戦車チームによって大きな損害を被った。 しかし、バーレブ線の構築とそれに従った反撃計画・準備(渡河機材など)があったことで戦争後半にイスラエル軍はスエズ運河を渡河し、(軍事的には)勝利を収めることができた。 構造バーレブ線の構成は主に拠点群、障害物、道路、指揮・兵站施設で分類することができる。当時の最新建築技術と火力を用い、運河と砂漠地形を活用した構造となっている。 拠点群運河沿いに33個の主要拠点「マオチム」(Maozim、要塞)を平均5~10キロメートルの間隔で配置、対岸の偵察と敵部隊の拘束を任務とする。諸元は以下の通り。
また、「マツメド」「ヒザヨン」拠点には地下式石油タンクから油を運河に流し、電気点火させる人工火災発生設備が設置されていた。1972年に実用試験を行った際に潮流が速すぎて油が有効な働きをしないという欠陥が判明したため、設置工事は中止されたが、大量の煙と炎の発生によってエジプト軍に心理的打撃を与える効果があることから、各拠点には水中にパイプを刺しただけのダミーが設置された[2]。 このほか、砲兵道(後述)沿いに「タオチム」(Taozim)が複数作られ、歩兵・戦車中隊が反撃のために待機した。 障害物スエズ運河はイスラエルの国防相モシェ・ダヤンが「世界最高の対戦車壕の一つ」と称したように、それ自体大きな河川障害である。 そのほか東岸に3つの土塁が構成され、障害・地上遮蔽のほか射撃陣地の機能も備えさせた。
道路イスラエル本土とスエズ運河一帯を結ぶ4本の道路がコンクリート舗装されたほか、次の道路が運河南北沿いに作られた。
このほか、逆渡河用として、カンタラ(Quantara)、イスマイリア(Ismailia)、デベルゾアル(Deversoir)周辺には「ヤード」(Yard)と呼ばれる部隊待機用の150m×700mの敷地が作られ、「ヤード」への道は後方にある橋梁の移動を容易とするため、なるべく直線で緩勾配の道路が整備された。 指揮・通信施設以下の5つの指揮所が整備された。
イスラエル南部軍は平時指揮所をイスラエル本土のベエルシェバに置き、戦争時にウムハシバに前進させた。 配置部隊
シナイ防衛のため、イスラエル軍初の常設師団として第252「シナイ」機甲師団が編成された(以下シナイ師団と表記)[3]。3個機甲旅団と1個歩兵旅団を基幹とした。第四次中東戦争当時の編成は以下の通り。
3個機甲旅団のうち1個機甲旅団が即応部隊として「タオチム」に駐屯し、有事30分で運河地帯に進出、残り2個旅団は通常後方で訓練にあたり、有事10~12時間以内に運河区域に進出できる状態にあった。歩兵旅団のうち1個大隊が「マオチム」守備兵として駐屯していた。 シナイにはこのほかポートファド市周辺の守備部隊として旅団規模の独立守備隊とナハル地域守備隊4個大隊があった。 砲兵火力は当時空軍が「空飛ぶ砲兵」として地上部隊を支援できると主張したため、あまり重視されなかったが、砲兵道に砲兵12個中隊48門が配備された他、「ブダペスト」に175mm自走砲 M107"ロマク"が4門固定配備された。 対空火力として、平行道一帯に空軍所属の8個ホークSAM中隊、ビルギフガファ周辺に2個中隊の計10個中隊が20mm、40mm対空機関砲とともに配備され、運河一帯の防空を担当した。 防衛作戦計画対エジプト防衛作戦として、小規模戦闘用に「ショパフ・ヨニム計画」(Shovach Yonim,鳩小屋)と大規模戦闘用に「セラ計画」(Sela,岩山)という作戦計画があった。 どちらも「マオチム」周辺での敵部隊の拘束と機甲師団による反撃、逆渡河を想定し、内容がほぼ同じであるため、まとめて説明する。
シナイ師団の1個機甲旅団が「マオチム」に増援として展開し(約1個小隊3輌規模)、また後方から2個機甲旅団が運河区域に進出、空軍の支援のもと、エジプト軍を拘束する。
「セラ計画」ではシナイ師団がエジプト軍を遅滞・撃滅している間に2個予備役機甲師団が動員を完了し、開戦72時間ほどで運河区域に進出するとされた。
運河東岸のエジプト軍を撃滅したのち、運河を逆渡河し、エジプト本土で戦闘を行う。 逆渡河用の渡河機材として、イスラエル軍は次の3種類の渡河機材を準備した。
脚注・出典参考文献
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