バンジャマン・ジョレス
コンスタント・ルイ・ジャン・バンジャマン・ジョレス(Constant Louis Jean Benjamin Jaurès、1823年2月3日 - 1889年3月13日)は、タルヌ県アルビ生まれの19世紀のフランス海軍の提督でフランス元老院議員。下関戦争に参加している。 日本での攘夷運動が盛んになったことを受け、横浜の居留民を保護するために、1863年4月26日(文久3年3月9日)には、ジョレスは上海からフランス東洋艦隊旗艦セミラミス(Semiramis)で横浜に到着した。同年7月8日(文久3年5月23日)、長州藩はフランスの通報艦キャンシャン(Kien-Chang)を攻撃した。7月20日(6月5日)、その報復として、ジョレスはセミラミス(砲36門)とタンクレード(Tancrède、砲6門)を率いて報復攻撃を実施した。セミラミス号は砲36門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。 翌1864年9月5日から7日(元治元年8月5日から7日)にかけて、四カ国連合艦隊の一員として、ジョーレスはセミラミス、タンクレード、デュプレクス(Dupleix)の3隻を率いて、再度長州藩を攻撃した。 1865年、小栗忠順が横須賀造船所の建設を計画すると、ジョレスはレオンス・ヴェルニーを紹介している。 フランス帰国後は元老院議員となり、さらに1889年2月22日には海軍大臣兼植民地大臣となったが、それから1ヶ月足らずの3月13日に死去した。 著名な政治家であるジャン・ジョレスは、甥にあたる。 |