バリーモア伯爵バリーモア伯爵(バリーモアはくしゃく、英: Earl of Barrymore)は、アイルランド貴族の爵位。1628年に創設され、1823年に廃絶した。従属爵位の爵位名に表記ゆれが多く、本稿ではバリー男爵とバッティーヴァント子爵に統一している。20世紀初に創設され、1代で廃絶したバリーモア男爵位についても述べる。 歴史コーク県出身で裁判官のデイヴィッド・ド・バリー(?–1278)は1261年ごろにバリー男爵(Lord BarryまたはBarrymoreまたはButtevant)としての地位を得た[1]。しかし『完全貴族要覧』第2版(1910年)によれば、この時代の爵位創設は不明な点が多く、確かなのは1489年に国王ヘンリー7世により承認された爵位であることと、1489年、1490年、1541年、1560年、1585年の5度にわたってアイルランド貴族における首席男爵(premier Barony)として認められたことである[2]。 デイヴィッド・ド・バリーから8世代後の14代男爵ジョン・フィッツジョン・バリー(1517/1518–1553)は1541年6月にアイルランド貴族院に登院したとき、首席子爵たる「バリー子爵」(Vic. Barry)を名乗ったが、『完全貴族要覧』によれば子爵位創設の記録はなく、14代男爵が勝手に名乗っただけだという[3]。その弟の2代子爵エドモンド・バリー(aft.1518–c.1556)は1553年11月の覚書で「バリーモア卿エドモンド」(Edmond Lord Barrymor)と名乗っており、爵位名にも表記ゆれが見られた[3]。 3代男爵デイヴィッド・バリー(?–c.1290)の来孫ジェームズ・バリーの庶子リチャード・バリーの長男ジェームズ・フィッツリチャード・バリー(?–1581)は3代子爵ジェームズ・フィッツジョン・バリー(bef.1534–1558)が息子をもうけないまま死去した後、1561年に正当な継承者エドモンド・バリーから3代子爵の遺産相続権を譲られ、同年にはエリザベス1世より「バリーモア子爵ジェームズ・バリー」として承認された[4]。しかしジェームズの長男リチャード・バリー(?–1622)はろう者であり、爵位継承から外されてその弟デイヴィッド・バリー(?–1617)が爵位を継承し、1585年に「バッティーヴァントまたはバリー子爵」(Viscount of Barry, alias Buttevant)、1613年に「バッティーヴァントのバリー子爵」(Viscount Barry of Buttevant)とされた[5]。5代子爵はアイルランド九年戦争における反乱軍に「バリー子爵」として参戦したが、1599年ごろにエリザベス1世支持に転じ、1602年に「バッティーヴァント子爵」として恩赦された[5]。以降子爵位の名前は「バッティーヴァント子爵」で定着した[5]。 5代子爵の孫にあたる6代子爵デイヴィッド・バリー(1605–1642)はアングロ・アイリッシュのアイルランドにおける利益を守り、1628年2月28日にアイルランド貴族であるコーク県におけるバリーモア伯爵に叙された[6]。3代伯爵ローレンス・バリー(?–1699)は1689年にジェームズ2世が招集したアイルランド議会により私権剥奪されたが、すぐに取り消された[7]。4代伯爵ジェームズ・バリー(1667–1748)はスペイン継承戦争に参戦した陸軍軍人であり、グレートブリテン庶民院議員を務めた[7]。その曽孫である8代伯爵ヘンリー・バリー(1770–1823)が嫡子をもうけないまま死去すると、爵位はすべて廃絶したものとして扱われた[8]。4代子爵の末裔でバッティーヴァント子爵位の継承者を名乗るジェームズ・レッドモンド・バリーは1825年にアイルランド貴族代表議員選挙の投票権を主張したが、認められなかった[8]。 4代伯爵の孫ジェームズ・ヒュー・スミス・バリーの庶子ジョン・スミス・バリー(?–1837)の孫で保守党の政治家であるアーサー・ヒュー・スミス・バリー(1843–1925)は1902年に連合王国貴族であるコーク県バリーモアにおけるバリーモア男爵(Baron Barrymore, of Barrymore, co. Cork)に叙されたが、息子が夭折したため、1925年に死去すると爵位は廃絶した[9]。 バリー男爵(1261年ごろ)
バッティーヴァント子爵(1541年)
バリーモア伯爵(1628年)
バリーモア男爵(1902年)
出典
参考文献
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