バスター (バンド)
バスター (Buster) は、1972年にリヴァプール近郊のウィーラルで結成されたイングランドのバンド。 全英シングルチャートには「すてきなサンデー (Sunday)」1曲しか送り込まなかったが[1]、1970年代後半の日本ではベイ・シティ・ローラーズと並ぶ人気を博し[2]、いわゆるビッグ・イン・ジャパンの代表的バンドのひとつとされている[3]。多くのヒット曲(シングル、アルバム)[4]を出し、1977年来日時には、人気テレビ出演のほか、武道館を含む日本ツアーを成功させた。バスターの楽曲は、2022年現在、主要な音楽配信サイトにて提供されている。 歴史結成からイギリスでのデビュー:1972年–1976年バスターは、1972年3月にリヴァプール近郊のウィーラルでで結成された。オリジナル・メンバーは、ピート・レイ(リードギター)、ケビン・ロバーツ(ベース)、レス・ブライアンズ(ドラムス)で、1年後にロブ・フェナー(リズムギター)が加わった。彼らは当初、「ザ・ニュー・アトラクション (The New Attraction)」という名で活動し[5]、ウェールズ北部のキャバレーなどを回って演奏し始めた。 1974年1月には、限定盤で7インチEPをリリースした。彼らは学業を離れると、直ちにRCAと契約し、バンドの名を「バスター」と改めた。このため、バスターの結成は1974年とされることもある[3][5]。 1976年5月14日に発表されたバスターのデビュー・シングル「すてきなサンデー (Sunday)」は、全英シングルチャートで最高49位まで上昇した[1]。これはバスターにとって、唯一の全英シングルチャート入りした楽曲となった[1]。8月、イギリスでの2枚目のシングル「ビューティフル・チャイルド」を発売、イギリスTVの全国ネット番組”Superpop '76”に出演し、イギリス国内でツアーを行なった。 日本、ドイツ等での成功:1977年1977年1月、イギリスでシングル「恋はOK!」を、2月にはデビュー・アルバム発売、イギリス国内12都市をツアーした。RCAの日本における事業であったRVC(後のBMG)は、「すてきなサンデー」の日本でのプロモーションを開始し、3月25日に発売した。このシングルは、洋楽チャートでは1位をとり[2]、総合チャートでもトップ15位入り、12週チャートインの大ヒットとなり[6]、1ヶ月後に発売したアルバムも総合チャートで22位、9週連続チャートインした[7]。その年、シングル4曲が日本でリリースされ、いずれも洋楽トップ20入りのヒットとなった。当時人気のラジオチャート番組「オールジャパン・ポップ20」では、「すてきなサンデー」は、7週連続1位を記録、シングルすべてが3位〜5位を獲得、いずれも数ヶ月にわたってトップ10に入るなど(しばしば複数曲がチャートイン)、立て続けにヒットを飛ばした[8](その他資料[9])。3枚目のシングル「夢みるダンス」では同曲をフィーチャーして[5]、森永チョコフレークのCMにも登場した[10]。ファンクラブの発足、10月には文化放送(全国ネット)でラジオ番組「夢見るバスター」が始まり、雑誌でも毎月特集が組まれるなど急速に人気が高まった。当時、洋楽アイドルが日本で相次いでデビューするなか、バスターもアイドルバンドして売り出されその人気も高かった一方、ロック志向が強くバンドの演奏力が高いと評判を呼んだ[11]。来日時のライブ演奏やテレビ出演時の生演奏は、それを裏付けるもので、大森庸雄氏や八木誠氏といった音楽評論家をうならせ、音楽ファンやギター少年少女を魅了した[12][13][14]。 1977年ドイツでは、「すてきなサンデー」「恋はOK!」が続けてヒット、音楽雑誌の表紙を飾る人気ものになった。4月、8月から9月にかけて、11月と3回、大きなツアー公演を行ない、ドイツのTV番組「German TV-Show "Disco" 」などテレビ出演も果たした。 バスターは、クリスマスの時期、日本、フィリピン、オーストラリアをツアーした。日本では、来日時の様子がNHK「ニュースセンター9時」のトップニュースになったり[2]、NHK「レッツゴーヤング」やTBS「ぎんざNOW!」への出演などテレビに大きく取り上げられ、12月25日の武道館における1日2回の公演を含む日本ツアーを成功させた。日本でのレコード売上により、ゴールドディスクも獲得した。 次の訪問地マニラでは8,000人を集める大コンサートを行った。オーストラリアでは、1977年12月31日から1978年1月末まで開催された最初のシドニー・フェスティバル(当時の名称は Festival of Sydney)[15]の一部として、シドニー・オペラハウスで演奏した。 日本公演(来日中の記録):1977年12月1977年12月11日から26日までの約2週間、バスターは日本に滞在した。テレビ番組に多数出演し、12月16日から25日まで日本公演を行った。
イギリスへの帰国とオルタナティブ・ラジオ:1978年–1982年1978年1月、バンドはイギリスに帰国した。彼らがこの時点で、海外でヒット曲5曲、ベストセラーとなったアルバム3枚を出しており、期待は高かったが、ティーンエイジ色が強かったバスターのイメージは、時流に合わないものになっており、1979年にはRCAとの契約も解消された。 新しく交代したマネージャーは、バンドの名を「ザ・ジャックス (The Jax)」と変えることを提案した。1980年には小さなインディ・レーベルのクレオール・レコードから、この名義で、デイヴ・クラーク・ファイヴがオリジナルの「ビッツ&ピーセズ (Bits and Pieces)」をカバーしたシングルを1枚出した[17]。しかし、このシングルはまったく反響を呼ばず、バンドはこのマネージャーと離れ、再編成されることになった。 ロブ・フェナーは、弟アラン (Alan) と一緒に曲作りを始め、地元の海賊放送だったマージーサイド・オルタナティブ・ラジオ (Merseyland Alternative Radio, MAR) で、自分たちのデモテープを流してもらった。また兄弟2人はデュオを組み、地元のパブやナイトクラブで、ロブ・アンド・アラン・フェナー (Rob and Alan Fennah) として演奏した。ピート・レイは、スタジオでの録音に集中するため、バンドを離れた。 1981年には、バスターのオリジナル・メンバーのうちフェナー、ブライアンズ、ロバーツの3人がオルタナティブ・ラジオ (Alternative Radio) 名義で活動した。このバンドは、1982年にリヴァプールの「バトル・オブ・ザ・バンズ (Battle of the Bands)」に参加して優勝した[18]。しかし、一年ほどの間にメンバー構成は変わり、バスターのオリジナル・メンバーはフェナーとロバーツの2人しか残らない状況となり[18]、1982年10月にバスターは正式に解散した。オルタナティブ・ラジオ (Alternative Radio) は1984年、フェナー兄弟(ロブとアラン)で再出発することになった[18](主要音楽配信サイトにて提供中/Alternative Radio-YouTube)。 後年:2008年以降バンドの足跡が、インターネット上に現れるようになり、彼らに対する関心が再び生まれ、かつての音源の再発を求める声が上がった。きっかけは、日本人ファンがMySpaceにかつてのバスターの音源を見つけたことだったという[2]。彼らはかつての音源への権利を買い戻し、バスターの音源が2008年にはCD版として再び日本市場に供給されることになった。彼らはまた、初期の音源などをウェブ上で公開するようになり[19]、2014年、4人が集まり断続的にレコーディングされた新作10曲を含むアルバムをCD版として発売した[20]。なお、2021年11月、初期のアルバムCD版は、主要な音楽配信サイトで提供が開始され、2014年発売の新規録音分を含むほぼすべての楽曲はデジタルダウンロード等で聞くことができる。 フェナー、レイ、ロバーツの3人は、2008年にリヴァプール博物館(Liverpool Museum:後のリヴァプール世界博物館)で開催された展覧会「The Beat Goes On, an exhibition of Liverpool popular music and culture」の開幕式典に招かれた。この展覧会では、「グローバル・インパクト (Global Impact)」のコーナーでバスターが取り上げられ、バンドの日本における成功が紹介された[21]。2014年には、東京の英国大使館がビートルズ以来、日本で成功した上位30の英国バンドのリストを公開、バスターもその一つだった[5]。 ピート・レイは、2013年12月26日に、ウィーラルの自宅で死去した[22]/Tribute to Pete Leay-YouTube。 ドラマーのレス・ブライアンズことレス・スミス (Les Smith) は、2016年に死去した[23]/Tribute to Les 'Brians' Smith-YouTube。 ロブ・フェナーは、音楽活動(バンド[18]およびソロ活動[24]、舞台や映像音楽、Fennah Rob-YouTubeギター講座など多岐にわたる)のほか、ライターや舞台製作(「Twopence Across The Mersey」[25]、「By The Waters Of Liverpool」[26]、日本でも話題になった「Lennon's Banjo」[27][28]、「Julia's Banjo」[29]など)と、幅広い分野で活躍を続けている[30][31]。2021年11月にはソロアルバムを発売した[32][33]。 メンバー
ディスコグラフィアルバム
シングル
脚注出典
外部リンク
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