ハビエル・バローソ
ハビエル・バローソ・サンチェス=ゲラ(Javier Barroso Sánchez-Guerra、1903年12月3日 - 1990年9月10日)は、スペイン・マドリード出身の元サッカー選手、元サッカー指導者、建築家。現役時代のポジションはFW、GK。アトレティコ・マドリード名誉会長、元スペインサッカー連盟会長。 経歴マドリードに生まれ、まだラ・リーガ開幕前のスペインでサッカー選手として活躍し、マドリードCFではFWとして、1921年から在籍したアトレティコ・マドリード (当時はアスレティック・マドリード)ではGKとしてプレーした。1925-26シーズン、コパ・デル・レイ決勝のFCバルセロナ戦ではキャプテンとして試合に出場した。 現役引退後の1932年1月、イェニー・ルドルフの後任としてアトレティコ・マドリードの監督に就任し、1931-32シーズンの13試合で指揮を取った。1941年にはスペインサッカー連盟の会長に選出され、5年間会長職を務めた。1955年12月、アトレティコ・マドリードの会長選挙に出馬し、見事当選。その後9年間に渡って同職を全うしたが、この間に多くの改革を施した。 1961年3月17日、バローソは、エスタディオ・メトロポリターノが現在のクラブ規模に見合っていないと考え、マンサナーレス川のほとりに新スタジアム建設予定地を購入した。建築家でもあったバローソは、当時のマドリード市長と共同でスタジアムの設計に携わり、1958年に多額の借金を抱えてスタジアム建設が始まった[1]。1963年にはのちにアトレティコ・マドリードの会長としてスタジアムのその名を残す事になるビセンテ・カルデロンを副会長に任命し、翌年にバローソは会長職から退いた。 主な作品サッカー選手としてプレーする傍ら、建築家としても活動した。
バローソは主に兵舎の建設を手掛けており、スペイン全土にバローソ設計・建設の兵舎がある[2]。 脚注
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