ノート:陰流
統合提案 陰流を「影流・陰流」へ統合することを提案します。 理由は、「影流・陰流」のページ参照の通り、「影流」と「陰流」が同義であるためです。 この件に関する、賛否、ご意見、アドバイスの程、よろしくお願いいたします。 --Tukushiko 2008年6月8日 (日) 10:27 (UTC)
早速、ご意見を頂きましてありがとうございます。ご指摘のありました「両名併記は解りづらい。」に就きましては、現在、大学で行われている講義や、武道史の指導者用テキストですら「影流」と「陰流」が別の流派の如き扱いをしています。 日夏繁高の「本朝武芸小伝」には「愛洲久忠」の「影流」「陰流」の独立した記述はありません。享保年間ですら愛洲久忠の事蹟が定かでなかった為、憶測の記述しか見当たりません。太平洋戦争前の昭和十年頃、「北畠氏の研究」の大西源一博士に秋田市の平澤良治氏が「愛洲氏系図や佐竹義重公起請文等」を送致された事から、愛洲久忠の裔が常陸太田城から秋田に転封後も佐竹藩に仕えて明治維新まで家禄を守り続けられたことが判明しました。 以上の経緯に依って「影流」「陰流」研究は戦後からでありますが、資料の殆どが「伊勢大神宮」関係であること、日本の中世の古文書を読解するには大学院でみっちり読解力を養っていないと出来ません。(武道家では到底無理です。) そして、現在の剣道史を軽んじている世相では莫大な研究時間を要するこの分野の研究家が育つのは仲々難しい状況です。 橋本菊月斎氏は御先祖が代々伊勢大神宮外宮の御師職であった為、研究が成されました。 また、「陰流」の書き込みの方が早いとの御指摘については、ウィキペディアは「早い者勝ち」を競う場ではないと考えます。絶えず研鑽し、繰り返し書き直しより一層「真実」に近づこうとするのが基本的姿勢ではないかと考えます。 「伊勢愛洲氏」は建武年間の伊勢入部以来、伊勢大神宮神領地・御厨(一之瀬御厨)の荘官として、外宮禰宜度会氏の配下にありました。 それ故、伊勢大神宮神領史や歴代神宮禰宜との係りや山田三方との研究なくして語れません。 嘉永年間伊勢大神宮の御巫清直翁が紀州藩田丸城主久野丹後守純固に差し出した論考『田丸城沿革考』が「伊勢愛洲氏」の最初の研究書で、昭和に至り戦前「北畠氏の研究」の大西源一博士が『南朝の隠れたる勤王家伊勢愛洲氏』を発表されています。昭和三十年代、「五ヶ所説」を唱えた中世古祥道氏は僧籍の為か伊勢神宮史や山田三方等には全く触れられていません。 それ故「結局解らない。」との結語になっており、「研究書」ではなくなってしまいました。 橋本菊月斎氏の著書「剣祖影流 愛洲移香斎久忠の系譜と伊勢大神宮神領奉行職伊勢愛洲氏の考察」では、大先達の功績に大略以下に挙げる「三点」の解明を成し得た事であります。
以上、縷々述べて参りましたがご理解頂けましたでしょうか。 --Tukushiko 2008年6月19日 (木) 08:24 (UTC)
御指摘頂きました「wikipediaの記事を執筆する」・「信頼できる資料」等の内容を確認し下記内容での記事の訂正を考えております。
上記内容にて記事を新たに作成いたします。 --Tukushiko 2008年6月30日 (月) 04:16 (UTC)
Hakusai氏御提示の『樋口家文書』は、ウィキペディア「念阿弥慈恩」で一部紹介されています。「門人」の項目で、「猿御前という人物については未詳であり、通常、陰流開祖は愛洲久忠とされており[2][3][4]猿御前との関係は不明である。」[2]『国史大辞典』 吉川弘文館 [3] 『日本大百科全書』 小学館 [4] 今村嘉雄ほか『日本武道体系』第1巻 同朋舎出版と、『樋口家文書』が荒唐無稽な記述である事が指摘されています。 綿谷雪・山田忠史共著の「武芸流派辞典」(人物往来社)にも、「馬庭念流(剣)」の記述で「11世定勝は寛永11年の御前試合に出た。」との『樋口家文書』の内容について、二人の著者はカッコして(これは嘘。この御前試合はフィクションである。)と注釈を付け加えており、多々物議を呼んでいる史料である事は間違いありません。 「北畠氏の研究」の権威者大西源一博士が、建武中興六百年記念祭でラジオ放送にて「南朝の隠れたる勤王家伊勢愛洲氏」との演目で昭和九年五月に講演されたのを秋田市の平澤浪治氏が人づてに聞き、大西源一博士の許へ「愛洲氏古文書」を送致し、博士が調査されて、正しく平澤浪治氏は伊勢愛洲氏の子孫である事が判明したのです。 これをうけて愛洲移香斎子孫平澤通有の記した「平澤氏家傳」が「歴史公論」4-10・青柳武明の「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」で紹介されて、以来「平澤氏家傳」が陰流起源の定説となりました。 依って『樋口家文書』を駆使して陰流の起源を編集されようとするHakusai氏の方針には同意しかねます。一応元に戻し、日本国史大辞典に添った編集を提案致します。--Monto 2009年5月28日 (木) 02:23 (UTC)
Hakusaiさん、「樋口家文書」はWikipediaの出典になるとのことですが、適切な資料選択ではありません。私には、Hakusaiさんの陰流の起源に対する考えが「念阿弥慈恩(念流)→猿御前→愛洲移香」であるための資料選択に思えます。 Wikipediaの執筆は、通説や信頼されている出版物・研究を基にした記載が望まれます。「樋口家文書」も検証可能な資料ではありますが、信頼度の高い、通説を形成している資料ではないので現状の本文も通説に合わせる必要があります。
通説は、陰流の起源は「愛洲移香斎久忠」です。
「念阿弥慈恩→猿御前→愛洲移香」を本文に記載するのであれば、上記出典以上の信頼度の高い資料を提示し、その出典を以って、「猿御前が陰流の創始者である」が通説であると証明なされなければなりません。 また、「樋口家文書」は、検証可能な資料で記事の執筆は可能ですが、資料さえ提示できれば通説ではなくとも諸説全てが記載可能となり、記事が煩雑になります。重視すべきは信頼度の高さという事を考慮して下さい。
樋口家文書の武道史における史料価値については、「日本武道大系」の編者でもある今村嘉雄氏、剣道五百年史の著者、富永堅吾氏等は樋口家文書の史料価値に疑義を提示しています。参考として、剣道五百年史より一部抜粋します。念流の項目36ページに、『樋口家の記録というのが、果たしてどこ迄信を置けるものか、その信用度についてである。僕はかつて日本剣道史の執筆者である岩本米太郎氏に逢って、種々剣道史執筆上の事について話を聞いたことがある。その時、話が樋口家の記録に及んだが、岩本氏の話ではあの記録は読んだが例の誇大に作為したもので、信ずるに足らぬといって一笑に附して居た。日本剣道史には、同記録の慈音については、「例の無形慈音で正説とは思はれない」と述べている。』と書かれています。 武道史の専門家が資料価値に疑義を提示している樋口家文書を根拠に記事を執筆する明確な理由はありません。室町中期~幕末にかけて剣術の流派は新撰武術流祖録、諸藩学制、撃剣叢談、日本剣道史より、重複分を除いても単純に500以上存在し、その数だけの流派に伝わる伝承が存在します。武道史はそれらの史料を学者先生が一つ一つ取捨選択して通説が形成されます。樋口家文書の武道史学会での扱いは、査証途中の位置付けです。既に形成されている通説に改めるべきと考えます。より信頼度の高い出版物や通説による執筆がWikipediaの望む記述となります。
Hakusaiさんが編集されている陰流の項目の2009.02.05(木)6:47と2009.05.25(月)00:55の「陰流の起源について」の編集に於いて、02.05の編集部分では、「~念阿弥慈音の弟子の猿御前が愛洲移香斎の師である説~」との編集をされていますが、05.25の編集部分では「~その一人の猿御前の子孫が愛州久忠であるとされ~」となっています。編集活動を精力的に行う事は素晴らしい事ですが、「猿御前の『弟子』が愛洲移斎」や「猿御前の『子孫』が愛洲久忠」と御自身の記述に整合性が取れていません。また、念流に伝わる「樋口家文書」を扱うのにあたっても同じくWikipedia、念阿弥慈恩の項目との整合性は考えましたか。「通常、陰流開祖は愛洲久忠』と、通説の記述が出典付きで記載されています。 読者の視点では、「弟子」とされていたのが、数行後には「子孫」になっているのでは混乱します。また、念阿弥慈恩の項目では、愛洲久忠が開祖と通説を記載の上、更に未詳不明として「猿御前→愛洲久忠」の記載がされているのに、Hakusaiさんが編集した陰流の項目では通説の記載、及び未詳不明の但し書きも行わず「猿御前→愛洲久忠」説を本文に据えていますが、無配慮といわれても仕方のない編集ではないでしょうか。御自身の編集履歴、及び関連の他項目との整合性に配慮した編集活動を行って下さい。 Wikipediaの記事は学術研究や、発表があるからといって何でも執筆出来ると誤解してはいけません。新たに書き加えられたHakusaiさんの記述『新陰流流祖上泉伊勢守信綱は、愛洲宗通の弟子とされているが、宗通より信綱の方がかなり年長であり、宗通と信綱の経歴を検証するかぎり、実際信綱が宗通から陰流を学んだ事については疑問があり、だれから学んだかについては諸説ある。』は、確かに出典もあり、専門的知識ではありますが、議論を誘発します。例えば、「本朝武芸小伝」塚原卜伝より、塚原卜伝は上泉信綱より新陰流を学んでいます。Hakusaiさんの提示された説は、愛洲宗通と上泉信綱の年齢差を考証し、不自然との見解を示した説を本文に据え、諸説あるとの書き方をされていますが、本朝武芸小伝によれば、上泉信綱(永正五年:1507年生)は、18歳年上の塚原卜伝(長亨二年:1489年生)に新陰流を伝授しており、年長者が年少者に剣を学ぶ実例もあり不自然とは言えません。 また、永禄九年五月吉日上泉秀綱改め信綱が柳生但馬守宗厳に相伝された「影目録」の第一燕飛の巻に「上古の流有り中古念流、新當流亦また陰流ありその他は計るにたえず予は諸流の奥源を究め陰流において別に奇妙を抽出して新陰流を号す。」とあってこれがいわゆる通説の論拠になっています。いつの時代も独自説は出て来ますが中条流が興ったとされる年代で中条流の型が集成された巻物及び史料が発見されない限り今回の様な編集はご遠慮願います。 Wikipediaの歴史分野の記述は、出典があっても検証途中の事項を本文に書き加える必要はありません。メリットはなく、デメリットとして、議論の誘発の原因になる、読者に一学説が通説のような誤解を与える等の原因になります。執筆については、百科事典等の二重三重の査証を得ている出典の範囲内に収めるのがWikipedia編集の方針に最も適した執筆方法と考えて下さい。--Gekiken 2009年6月1日 (月) 02:22 (UTC)
通説以外に存在する諸説の一部紹介の指摘については前回コメントした通りです。通説に沿った記述に差し戻しました。 岡田一男氏の「新陰流源流考」は一ページに満たない「メモ程度の内容」であると思われますが、Hakusaiさんはこのメモ程度の「新陰流源流考」で、下川潮著「剣道の発達」の説を覆す根拠とでもされるつもりですか?Hakusaiさんが真面目に編集しているとはとても思えませんよ。 岡田一男氏は「NHK・鈴木健二・歴史への招待4」に「武者修行の実態」と題する論考を寄稿されています。氏の論考は下川潮氏の「史林・第三巻第一号・武者修業に就いて」を読まれていない内容です。岡田氏は「新当流正統之血脈」や「新当流和歌序文」等、明らかに後世の弟子達が創作した史料に基付いた論考を展開するなど思い込みの強い学者であるようです。 Wikipedia:中立的な観点および、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか、Wikipedia:信頼出来る情報源を熟読して見て下さい。Hakusaiさんは、6月1日のコメントに、「樋口家文書が信頼性がない、と言う事については知っております。」と書かれています。何故あえて、通説ではない諸説及び史料を取り上げ執筆されるのでしょうか。真面目に編集する姿勢がWikipediaでの最重要エチケット一つと思いますが。--Gekiken 2009年6月7日 (日) 08:42 (UTC)
編集について重要なのは、通説及び、通説と成り得る重大な発表・論考です。岡田一男氏の論考は、明確な資料の提示がされいない岡田氏の思い込みのメモです。氏は生前マスコミによく出られておりましたので啓蒙学者としての功績は大であったと思いますが武道史学会での学位等を取られたとは聞いておりません。よって既に参考文献に掲示してあるこのメモを更に外部リンクで2重に紹介する必要はありませんので記事のバランスを考え外部リンクを外します。--Gekiken 2009年6月22日 (月) 06:37 (UTC)
そして、Hakusaiさんの提案されている編集方針の見解については正にその通りです。
そして「ウィキペディアは議論の場ではない」と明記されています。 しかし、Hakusaiさんの編集、2009年2月5日 (木) 06:47 Hakusai (会話 | 投稿記録) (7,224 バイト) (明らかに独自研究と思われる部分や文章の修正。文体を整えました) (取り消し)、においては全く御自身の提案とは逆の編集をされています。 Hakusaiさんの2月5日の編集履歴を確認すると、ノートページへの本文の書き換えの提案は行われておらず、御自身の考えを以て独自研究と判断し大幅な前記事の削除と編集を行っています。上記4点のHakusaiさんの見解がウィキペディアンとしての考えであるなら、先ずは、記事をいきなり編集するのではなく、本文のヘッダーに独自研究の疑いがある等のタグを貼る、または、独自研究と思われる文章に要出典タグを貼る等して、執筆者や編集者に文章の修正、及び出典の記載を求める、または、御自身で資料等を調べ、出典の記載をするべきだったのではないでしょうか。実際のHakusaiさんの編集は、内容の大部分を言い換えずに削除し記事を執筆、多様な観点については独自研究として無言で削除、更に編集前の記事についての情報源(出典)の明記すら求めていないのがHakusaiさんの2009年2月5日の編集です。 御自身で提案した事は、先ず実行して下さい。--Gekiken 2009年6月24日 (水) 03:10 (UTC)
疋田系の新陰流について112.118.153.195 さま。 疋田伝新陰流香取系に愛洲陰流を名乗った系統があると書かれていますが、出典はなにでしょうか? 武芸流派大辞典では東新陰流、撃剣叢談やつくば大学の新陰流伝書集では単に新陰流となっています。 坂井半助系統ではたしかに愛洲陰流を名乗った系統が見られますが、香取系統では存じて居りませんのでよかったら出典をお教えください。--106.182.50.95 2013年7月18日 (木) 18:56 (UTC) 改名提案「陰流」を「影流」に改名することを提案致します。--壹號作戰(会話) 2014年4月12日 (土) 11:29 (UTC)
文献にのみ頼る歴史は歴史学足り得ません。直伝直伝でたまたま途絶えることなく影流から直心影流まで技という身体技法を受け継いできた五名の直心影流免許皆伝者が、「影流」であって「陰流」ではないと証言してきました。四名は物故し、一名生存し、その一名が「直心影流では「愛洲移香斎様は影流である。」と伝わって来ている。」と証言しています。 そこで、質問があります。 すべての文献が「陰流」という表記ですか?--壹號作戰(会話) 2014年4月13日 (日) 03:04 (UTC)
Hakusaiさん、「影流」と記された巻物・文書(もんじょ)・文書(ぶんしょ)をすべて掲載して、具体的に引用してください。 > 愛洲の文書や愛洲陰流の伝書でもに陰流になっていますし、 それらはすべて文献ですよね?身体技法を受け継いでいる方々や口承は残っていないのですか? > 最近の研究でも陰流では、 「最近の研究でも陰流では?」という「疑問形」ですよね? つまり、あなたがおっしゃるには、歴史学会でも議論がわかれているわけです。 では「影流」と「陰流」を別の記事とみなして存続させることを提案致します。 そもそも、なにゆえ戦国時代の前の史実ですから、 伝聞の文献と、伝聞の伝聞文献と、伝聞の伝聞の伝聞の文献による仮説と、 影流宗家上泉伊勢守に影流剣術すらまともに教えてもらえず「目録どまり」にされた柳生新陰流という 影流に似た別の剣術流派が大派閥となって「新陰流であるので、陰流であったはずである。」と主張が、 文献主義偏重の仮説と別の剣術流派たちの主張が融合しているのが 「最近の研究でも陰流では」というご主張の源ですよね? 柳生新陰流が否定されればその仮説すべてが瓦解します。 柳生新陰流のもれなくすべての宗家たちに、直心影流冨山派秋吉博光さんの打診であると前おいてから、 「影流か?陰流か?お答え下さい。」と、問い合わせて下さい。これは「陰流」主張派の方々のつとめです。 柳生新陰流は、江戸時代には日陰の忍びの身でありながら、江戸幕府に全国に忍びとして派遣されたため、かなり死んだものの、 全国に柳生新陰流が広まり、大所帯であることのみをもって現代では大手を振って歩いていますが、 ほとんどすべての柳生新陰流宗家たちは直心影流冨山派現宗家から「柳生新陰流は目録止まりである。」と指摘され承諾しています。 不利だと思って動かないという策は取らないで下さい。 もし仮に、あなた方柳生新陰流の方々がそうなさったら、私は私の全力を持って、 柳生新陰流そのものが「かげりゅう」「影流」「陰流」を流派名に付けられないようにいたしますので。 一般に不遜にも上泉伊勢守先生の新陰流を名乗っておいでのようですから、流派の名前が消えます。 どう名付けるかを柳生新影流宗家たちと相談しておいて下さい。
> となっているようなので陰流が適当かとおもいます。 あなたは何流の何術の方ですか? 私は直心影流兵法の剣術の者です。--壹號作戰(会話) 2014年4月13日 (日) 04:13 (UTC)
|