ノート:愛宕念仏寺「縁起」書き変え文案約8世紀中頃、稱徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたらしい。すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失。廃寺同然の寺を、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗の末寺となった。 いったんは七堂伽藍を備えたものの、興廃を繰り返した。本堂と仁王門のみになっていたのを、1922年現在地に移築。その後も復興には遠く、再び荒れ寺となった。1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も当初、引き受けるのをためらったという。それを清水寺貫首・大西良慶の「それだけ傷んでいれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、お前は、復興者、復興者やといってもらえる。わしも手伝ってやるから」の激励で復興に取りかかった。以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備した。 素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1971年。当初は五百羅漢が目標だったが、1991年には千二百羅漢となった。
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