ノート:徳川慶喜/過去ログ1
慶喜の幼少写真写真を見たところ相当幼いのですが、本当に慶喜公の写真ですか?1837年生の慶喜が何年ごろ撮影した写真なのでしょう。海外で日本人の写真が初めて撮影されたのが1852年、日本国内で外人の手により日本人が撮影されたのが1854年、日本人自身の手で写真撮影に成功したのが1857年だったと思うのですが。--平成no牛若丸 2007年2月9日 (金) 04:54 (UTC) ウィキコモンズによりますと http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Yoshinobu_Tokugawa_5.jpg 「幕末・明治・大正 回顧八十年史」(昭和9年)からの写真のようです。自分には確認のしようがありませんが、参考までに。--Kamesan101 2007年6月14日 (木) 13:09 (UTC) 徳川慶喜こんにちは。私は徳川慶喜について調べています。 そこで、大政奉還についてもっと知りたいのですが、どなたか詳しく知っている人は教えてください。 --124.255.7.72 2008年2月6日 (水) 07:42 (UTC) まきこ 一条美賀か一条美賀子か一条美賀と一条美賀子との書き換えが見られます。一条美賀にするのは現段階では反対です。どちらが適切かは別として、ウィキペディア日本語版では一条美賀子を記事名としている以上、一条美賀子へのリンクが切れてはなりません。一条美賀子にするなら、それなりの手続きを踏んでください。青リンクから赤リンクにするときはもっと慎重であるべきと思量します。--ShikiH 2008年3月30日 (日) 11:09 (UTC)
幼名について利用者:きままさんにより、“ドラマなどでは「七郎麿」となっているが、正しくは七郎「麻呂」なので”としながら、ドラマの解説本を参照にした“七郎「麻呂」”との編集がなされました。より正確なWikipedia:信頼できる情報源によりどちらが正しいかの判断が必要だと考えられますので、いったん差し戻し、両論併記の形にしました。--彩華1226 2009年2月20日 (金) 14:57 (UTC) 根拠は松平七郎麻呂・直筆の書「楽山」(徳川美術館)などです。本人が書いているのですから七郎「麻呂」のみ正解です。--きまま 2009年2月21日 (土) 15:18 (UTC)
繰り返しになって恐縮ですが 根拠は松平七郎麻呂・直筆の書「楽山」(徳川美術館)などです。本人が「七郎麻呂」と書いているのですから七郎「麻呂」のみ正解です。 史料によって表記には揺れがあるとして両方を併記しておけば良いのではないでしょうか。 それに関しましては ドラマなどでは「七郎麿」となっているが、正しくは七郎「麻呂」である と記述して「七郎麿」という表記が存在することは示しています。 そういうことで御了承願いたいと存じます。--きまま 2009年2月22日 (日) 16:09 (UTC)
お返事、有難うございます。 創作ととられかねない んー、「創作」と言いますか(かなり広範囲に渡って広まった)「誤字」と言えると思います。 繰り返しになって恐縮ですが 根拠は松平七郎麻呂・直筆の書「楽山」(徳川美術館)などです。本人が「七郎麻呂」と書いているのですから七郎「麻呂」のみ正解です。 根拠を追加させて頂きますと、内藤業昌(ないとう・なりまさ)筆の「松平七郎麻呂・七歳肖像画」にも 「七郎麻呂殿七歳肖像」と内藤業昌が書いています。 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)などの一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、本人の署名は「七郎麻呂」である。 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)などの一部史料で「七郎麿」との表記になっている ので 「七郎麿」表記は存在しますが、正しい表記ではありません。 受諾なさるのは難しいかもしれませんが、何とかそういう事でお願い出来ないかと考える次第でございます。--きまま 2009年2月24日 (火) 15:40 (UTC)
“「七郎麿」表記は存在します”=“「七郎麿」表記は「この世に」存在します(が正しい表記ではない) ということです。--きまま 2009年2月28日 (土) 15:09 (UTC)
「水戸様系譜」は慶喜の実家の史料(日記等を元にしたであろう系図)で、ある程度信用のおけるものであります。慶喜の他の兄弟の幼名は、長兄(徳川慶篤、幼名:鶴千代)を除いて20人の兄弟全てに「まろ」が入っているのですが、そこではみな「麿」表記です。もし「麻呂」だけが正しいというのであれば、他の20人の兄弟も「麻呂」が正しいとしなければ整合性がとれませんよね?(慶喜一人、あるいは数人だけ「麻呂」というのは、字の区別に特別の意味が無い限り考えにくい)。 根拠は以下の文です。 水戸で養育されていた斉昭の4人の子供たち、五郎麻呂、七郎麻呂、八郎麻呂、九郎麻呂は天保14年4月、江戸に呼び寄せられた。 離れて暮らす母・吉子は内藤業昌に命じ、それぞれの子供を4幅の肖像画に描かせたと伝わる。ドラマでは幼名を七郎麻呂としたが、正しくは七郎麻呂である。 (NHK大河ドラマストーリー「徳川慶喜」後編(NHK出版)63ページ) 私が言うのも何ですが、そんなに拘泥なさらなくとも良いのではないでしょうか? 麻呂=麿 ではないですが 麻呂≒麿 なのですから--きまま 2009年2月28日 (土) 17:57 (UTC)きまま
根拠は 七郎麻呂本人の署名および内藤業昌の署名 および 水戸で養育されていた斉昭の4人の子供たち、五郎麻呂、七郎麻呂、八郎麻呂、九郎麻呂は天保14年4月、江戸に呼び寄せられた。 離れて暮らす母・吉子は内藤業昌に命じ、それぞれの子供を4幅の肖像画に描かせたと伝わる。ドラマでは幼名を七郎麿としたが、正しくは七郎麻呂である。 (NHK大河ドラマストーリー「徳川慶喜」後編(NHK出版)63ページ) です。--きまま 2009年2月28日 (土) 18:23 (UTC)
「七郎麻呂」が正解。「七郎麿」は(正解ではないが)正解に準ずる(準正解)という感じで良いのでは?と(現時点では)考えています。 それ故、松茸さんの 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)などの一部史料では「七郎麿」との表記になっている の部分は(削除せず)そのまま残している次第です。--きまま 2009年3月2日 (月) 14:53 (UTC)
一部史料では「七郎麿」という表記もあるが、慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している という表現で如何でしょうか?--きまま 2009年3月3日 (火) 15:42 (UTC)
慶喜本人は「七郎麻呂」と署名しているを慶喜本人が「七郎麻呂」と署名している書が残されているにすればより正確性が増すと思います。 一部史料では「七郎麿」という表記もあるが、慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している は「本文」として記述し 慶喜本人が「七郎麻呂」と署名している書が残されているの箇所を記述する場合は「脚注」として付記すれば良いと考える次第です。--きまま 2009年3月4日 (水) 05:52 (UTC) 全体の構成についてShikiHでございます。全体の構成が緩いように思います。晩年、静岡でけいき様と呼ばれたことは、3回も記述されています。他のことも含め、全体を整理すべきだと思います。私がやってもかまいませんが、それよりもこの記事をたびたび編集しているかたの方がよいので、改訂をお願いいたします。--ShikiH 2009年3月27日 (金) 23:07 (UTC)
「Y」の字になるよう三人で同衾???一方成人後の睡眠時には、暗殺対策として、妻妾二人と「Y」の字になるよう三人で同衾していたという逸話も伝えられる。」
要出典につきまして私の書いた部分に要出典とありますが、これは2000年発行の「徳川十五代将軍グラフティー」にも書いてある説です。--高幡不働 2011年7月27日 (水) 04:09 (UTC)
関連作品について関連作品の節で、除去と再掲載が繰り返されています([1]、[2]、[3]、[4])が、このようなことに関してはPortal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案やプロジェクト‐ノート:人物伝#歴史上実在人物の記事の、登場作品一覧についてなどで議論が行われましたが、結論は出ておりませんので、個々の記事ごとに検討するしかありません。本記事において異論が出た以上は、合意が得られるまで拙速な除去は行わないようにお願いいたします。また、除去された記述を復帰される際も、編集合戦(3RR)にならないようにご注意願います。--立花左近(会話) 2012年7月21日 (土) 23:25 (UTC) 「個々の記事ごとに検討」ですか。現状、編集内容の要約では除去の理由を提示していますが復帰の理由は一切提示されていません。今後、復帰すべき理由すなわち、単なる配役リストが当該人物の記事に記載されなければいけないほど「記事の主題への寄与が大き」く(WP:NOTDIRECTORY)あらゆる細部に至るまですべて包括する詳細な解説(WP:IINFO)ではないことが示されなければ結論は除去ということになります。--彩華1226(会話) 2012年7月22日 (日) 03:49 (UTC)
阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い本文中「阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。 同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問し翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分が下る(安政の大獄)。この日は三卿の登城日であり斉昭や慶永と違って不時登城ではなく、罪状は不明のままの処分であった。」とあります。 「阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。」は島津斉彬の死後に井伊直弼が大老になり将軍継嗣は慶福と決したと解釈されてしまいますが、井伊直弼の大老就任は安政5年4月、島津斉彬が亡くなったのは年は安政5年7月16日、徳川家定が亡くなったのは安政5年7月6日であり事実に反しますので「阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い」を削除して「慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立したが、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。」とするのが適切ではないでしょうか?--240D:1:7902:6A00:CE2:FE6E:30D8:297 2017年11月9日 (木) 07:33 (UTC) --163.49.215.213 2021年7月7日 (水) 08:03 (UTC)== 誤記では == 下記部分は、訂正が必要かと思われます。 明治31年(1898年)3月2日には皇居に参内して明治天皇の拝謁を受けた。 → 訂正例)明治31年(1898年)3月2日には皇居に参内して明治天皇に拝謁した。 --163.49.215.213 2021年7月7日 (水) 08:01 (UTC) |