似田貝香門の科研費流用事件削除と全く同質なのが、あおいつき氏による、『週刊新潮』記事の出典が示されていた五十嵐雅子の「帝京の女帝」削除の件です。「帝京の女帝」は、大学関係者なら知らない人はいないような常識であり、私立とはいえ、大学という公的機関の「私情」による私物化という問題をはらんでいます。Clemさん、おーたさん、この辺の問題からスタートしてはいかがでしょうか?--チハ 2008年6月28日 (土) 10:40 (UTC)[返信]
- チハさん、参考情報のご提供、ありがとうございます。まず、これまでの議論に参加されていない方のために簡単にご説明申し上げますと、本節は、ノート:赤川学における論議から派生した問題を扱うものであります。ノート:赤川学の議論自体は解決を見たのですが、当該議論において、Wikipedia:存命人物の伝記を基準とした学者・研究者の人物評価における否定的記述の扱いについて見解の相違が見られました。簡単にまとめれば、「第三者の媒体による信頼できる情報源」がある場合にも「本人に不利な記述は、とにかく削除するという傾向を持つウィキペディアンが最近、増えている」(ノート:赤川学におけるチハさんのコメントより引用)ことに対する疑義であり、そこで、具体的に朝日新聞朝刊一面でも取り上げられた似田貝香門氏の科研費流用事件の掲載可否が問題になりました(本項目においては、不定期的に当問題の記述と除去が繰り返されております)。(以上、まとめ終わり。不正確な点があればご修正願います。)
- 本題に入ります。当ノートは、似田貝香門氏のページですので、ここでは氏の問題に焦点を当てて、わたしの現在の認識を最初に述べます(五十嵐氏の件については、後述のように事象の問題性については本議題と同質性があると考えますが、「第三者の媒体による信頼できる情報源」という点で言えば、性質が異なると考えます)。おそらく、科研費流用事件を掲載不可とする主張を支える論理は、Wikipedia:存命人物の伝記#当人はプライバシー尊重を望んでいると推定するの「公人・著名人」における「ある記述や事件が有名で本人の業績にとって重要(relevant)なもので、信頼できる公表済みの情報源できちんと文書化されているものなら、たとえ否定的なもので当の本人が嫌がろうと、記事に含めるにふさわしいでしょう」(強調は引用者)という文言にあると考えています。
- 学者にとっての「業績」といえば、当然、研究業績でありましょう。しかし、わたしの知る限り、当事件によって、似田貝氏の研究業績に傷が付いたとする根拠も現実もありませんし、わたしの主観的判断になりますが、似田貝氏が一級の研究を積み重ねてきたことに疑いの余地はありません(余談になりますが、その点からすれば、本記事はあまりに無内容であります)。となれば、やはり掲載不可となるのか、と考えるのですが、他方で、おそらくはチハさんが問題にされている、事件なり事象の「社会性」、「公共性」を無視してもなるまい、との思いもあります(この点について、Wikipediaにおける方針は明文化されているのでしょうか?)。
- 以上、チハさんに続き、わたしからの論点整理を行いました。しかし、わたしの認識には多くの誤りがあろうかと思います。その点のご教授も含め、議論をさせていただき、当該事件の掲載の可否について合意を形成できれば幸いに存じます。よろしくお願い致します(本節の議論に至る経緯を説明しましたので、節題を「「存命人物の伝記」の基準について」から、たとえば「科研費流用事件の掲載の可否について」へと改題したいと思うのですが、いかがでしょうか)。--Clem 2008年6月28日 (土) 15:23 (UTC)[返信]
- ええと。ノート:赤川学で書いたのと同じことを書かせていただきます。ここは似田貝香門のノートページじゃないんですか?どうして、最初から話を別事項に拡散させるのでしょうか。私のさして長くない編集経験から言わせていただくと、こういう議論の進め方は、必ず長期化し、労多くして益の少ない議論に陥っていきます。赤川学の議論で似田貝香門の事例を持ち出し、似田貝香門のノートページに移って来たと思ったら、最初から似田貝香門の件には触れずに、五十嵐雅子の話を持ち出すというのは、どう考えてもまともな議論の進め方ではありません。「本人に不利な記述は、とにかく削除するという傾向を持つウィキペディアンが最近、増えている」ことを問題にしたいのであれば、Wikipedia‐ノート:存命人物の伝記あたりで提案すればいかがですか?--おーた 2008年6月28日 (土) 16:07 (UTC)[返信]
- だってClemさんが「「明確な出典のある」似田貝氏ほかの件について、果たしてWikipediaの掲載基準(Wikipedia:存命人物の伝記)を満たしていると考えてよいのか、わたし自身判断ができないでおります。できれば、この件について、ノート:似田貝香門でお付き合いいただければ幸いに存じます。その際には、わたしの考えるところを当該ノートに記したく思います」と書いていたではないですか。
- Clemさんの「学者にとっての「業績」といえば、当然、研究業績でありましょう」という点については、問題発覚の経緯を少し知っているだけにかえって書きにくいのですが、大学教授の職務は、研究と教育であり、後者の教育をめぐる軋轢から発覚した側面もあるようです。研究だけしてればいい研究機関に勤務する研究者と違って、大学教授の職務は研究だけではありません。また似田貝香門の専門が「社会正義」だっただけになおさら、自らは科研費の不正流用、カラ出張をしていた氏の業績が当時、さまざまなところ(特に2ちゃんねるなど)でバカにされていたはずです。--チハ 2008年6月28日 (土) 17:15 (UTC)[返信]
- おーたさん、チハさん、こんばんは。すみません。チハさんに引用いただいたわたしの記述の意図は、「似田貝氏ほかの件」を総括的に本ページで扱いたいということではなく、「似田貝氏ほかの件」の掲載の可否について、Wikipediaの掲載基準(Wikipedia:存命人物の伝記)を満たしているのかについて、現在明文化されている方針では恣意的にしか判断できないと考えているが、そのことを確認するためにも、本ページで「似田貝氏の件のみについて」議論したいというものであります。主題はあくまで、似田貝氏の件であります。またしても、わたしの記述が厳密でなかったために、問題を生じさせてしまいました(というより、本音を申し上げれば、無用な感情のぶつかり合いを避けるべくいろいろと配慮して記述しているつもりなのです)。
- 以上の意味において、わたしは、五十嵐氏に関するチハさんの冒頭記述を「参考情報」とみなし、「「存命人物の伝記」の基準について」から、「科研費流用事件の掲載の可否について」へと議論を本道に戻そうとしたわけです。そういう流れで、議論を進めることはできないでしょうか。
- しかし、「本人の業績にとって重要(relevant)なもの」かどうかを判断する基準はどこにあるのでしょうか。これも「第三者の媒体による信頼できる情報源」によるとなれば、話は楽なのですが、重要かどうかを、このページで展開しかけているようにノートページの参加者で議論して恣意的に決めるしかないというのであれば、わたしは参加を自制したいと思います。チハさんが一定の配慮をもって「教育をめぐる軋轢」と表現されていますが、そういった(当事者以外は伝聞で知っているに過ぎない)裏の事情を、(ノートページとはいえ)ここで書くべきではないと考えるからです(おそらくチハさんも同じ見解であると推察します)。そうではなく、もっと「建前」のレベルで本記述の掲載の可否を決めることにはなっていないのでしょうか。--Clem 2008年6月28日 (土) 18:10 (UTC)[返信]
- 大学教員の仕事は、少なくとも日本では、教授ともなれば自分の研究よりも教育の方に重きが置かれるようになります。科研費の不正流用が特に教育の方と深く関わっているのは、大学業界一般の通り相場のようです(生殺与奪の権を握られているから、大学院生側は拒否できない)。ましてや似田貝香門の専門は「社会正義」でした。その似田貝が起こした事件だから、「社会正義」を強調する研究業績も含めて、当時、大いに笑いものになったと理解しています。--チハ 2008年6月29日 (日) 02:55 (UTC)[返信]
(インデント戻し)皆さん、おはようございます。ノート:赤川学のいきさつから拝見させていただきましたが、おーたさんのおっしゃるように、ここは似田貝氏のノートページなので似田貝氏の話題に限定して議論をされるべきです。チハさんは、似たような事例もまとめて特定の人物のノートページで解決してしまおうとされているように見受けられますが、ノート:似田貝香門での合意は、記事:似田貝香門限定の合意ですので、おーたさんが指摘されているように、類似の事例をまとめて論議するのであればWikipedia‐ノート:存命人物の伝記で提案をするほうがよいでしょう。
それから、ノート:赤川学での論議でも気になっていたのですが、本人に不利な情報を載せるか否かという前に、その人物の研究上・教育上の実績についての解説をまずは載せるべきでしょう。負の評価を載せるのであれば、正の評価も一緒に載せるべきです。そうでなければ、Wikipedia:存命人物の伝記での要件どころか、Wikipedia:中立的な観点の要件すら満たしていないように思われます。それから下記の点についても、それを理由として掲載することはWikipedia:検証可能性の方針に反するものと思います。
- 大学関係者なら知らない人はいないような常識 → これは(帝京大学の)大学関係者が知っているだけで、一般の人は知らない非常識です。
- さまざまなところ(特に2ちゃんねるなど)でバカにされていたはずです。 → これは風聞の類であり、信頼できる情報源とはいえません。
以上の点は、記事に掲載される場合にはご注意いただいたほうがよいでしょう。まずは、記事:似田貝香門のノートで記事:五十嵐雅子を主題とするような議論は避けるべきです。チハさんは、記事:似田貝香門での合意形成のために議論を進めるか、類似の事例をまとめて議論したいのであればWikipedia‐ノート:存命人物の伝記に場所を変えて議論を起こしたほうがいいでしょう。これらの点をご確認のうえ、議論を進めていただきますようチハさんにお願いいたします。--M.M 2008年6月29日 (日) 00:14 (UTC)[返信]
- 「負の評価を載せるのであれば、正の評価も一緒に載せるべき」という点に関しては、何か誤解されているようですが、私は、世間周知の事件の記述であるにも関わらず(しかも、その元々の記述は私が書いたものではない)、利用者:Lipshand氏が捨てIDで削除したのはおかしいと取り上げただけですよ。だから「本人に不利な記述は、とにかく削除するという傾向を持つウィキペディアンが最近、増えている」としたわけです。「正の評価」を書きたければ、ご自分でお書きになったらいかがですか?
- 「大学関係者なら知らない人はいないような常識 → これは(帝京大学の)大学関係者が知っているだけで、一般の人は知らない非常識です」に関しては、何が問題なのか理解不能です。大学業界の常識を、世間一般の人に知らせることに、ウィキペディアとして何か問題がありますか? また「(帝京大学の)大学関係者が知っているだけ」と、何を根拠にしてか、カッコ書きながら「帝京大学の」と付け加えていますが、そんなことはありません。私自身、帝京大学関係者ではないし、私の周りにも帝京大学関係者はいない。けれども皆さん「常識として知っている」という類の問題です。そしてこれも、私が積極的に書き加えたのではなく、すでに出典付きで書かれていたのが削除されたのは、似田貝香門の件と同様におかしいと感じたまでです。--チハ 2008年6月29日 (日) 02:55 (UTC)[返信]
- まず、チハさんが「利用者:Lipshand氏が捨てIDで削除したのはおかしいと取り上げた」件についてですが、Wikipedia:存命人物の伝記に「もし、アカウントを持っていないIPユーザーや新規アカウントユーザーが現れて、存命中の人物に関する記事の全部、または一部を白紙化したら、それは本人かもしれません。」とあるのを読んでいただけていますでしょうか。私も、おそらくLipshand氏は似田貝香門氏の関係者だろうと推測します。よって、この事例を「本人に不利な記述は、とにかく削除するという傾向を持つウィキペディアンが最近、増えている」例とするのは無理があるのではないかと思いますよ。本人関係者が捨てアカウントで削除しにかかるのは昔からあることで、今に始まった訳じゃありません。
- その上で「本人に不利な記述は、とにかく削除するという傾向を持つウィキペディアンが最近、増えている」というチハさんのご感想にコメントさせていただくとすれば、何度も書きますがWikipedia:存命人物の伝記が積極的に書かせるよりは、積極的に削除させるようなガイドラインになっている以上、何の問題もないのではないでしょうか。私は、このガイドラインがようやく周知されるようになってきたのだなと解釈しています。チハさんが、そのことに疑問を抱かれるのでしたら、これも何度も書いていますが個別のノートで議論されるよりは、包括的に議論が出来るしかるべき場所で問題提起をするべきだろうと考えます。
- もうひとつ、チハさんの「大学業界の常識を、世間一般の人に知らせることに、ウィキペディアとして何か問題がありますか?」という問題意識についてです。知識を広く共有するための百科事典ですから、その意味では問題ないでしょう。ただ、スキャンダルだけを一生懸命広めたいというのは、どこか下世話な感じを世間に与えているということは自覚されていたほうが良いでしょうね。そして、Wikipediaが「それが真実であるかどうかよりも検証可能かどうか」を掲載基準として煩く言っているのはご存知の通りです。ことに生身の人間の情報を書く上では、この基準はかなり厳しく適用されます。書こうとしている「大学業界の常識」が、ただの噂話ではないWikipedia読者にとっての検証可能な情報であることが証明されなければ、何度でも削除されます。さらに、Wikipedianたちがよく書く意見として「世直しのためにWikipedia記事を書かないで欲しい」というものがあります。社会正義を盾にして記事を書こうとする人たちへの牽制なんですが、そういう意見があることもご留意ください。--おーた 2008年6月29日 (日) 04:23 (UTC)[返信]
- おーたさんが、さかんにWikipedia:存命人物の伝記を引き合いに出されるので、こちらもそれを元に二言ほど。
- 「公人・著名人」について、「ある記述や事件が有名で本人の業績にとって重要(relevant)なもので、信頼できる公表済みの情報源できちんと文書化されているものなら、たとえ否定的なもので当の本人が嫌がろうと、記事に含めるにふさわしいでしょう」とあるのは無視でしょうか? 「社会正義」を学問的専門としていた似田貝香門が、東大教授・副学長という大学業界の権力の頂点に近い立場にありながら、科研費不正流用、カラ出張など「社会的不正義」を行っていたのは、本人の業績にとって、十分、重要(relevant)と考えます。
- また「本人を情報源にする場合」の項には、加筆要件として「不当に本人に都合よく書かれていないこと」とされています。おーたさんが、「Lipshand氏は似田貝香門氏の関係者」と推測されているので、念のため。--チハ 2008年6月29日 (日) 07:32 (UTC)[返信]
- ん?私は似田貝香門氏の事例については、書くなとは書いてませんよ?きちんとした出典を使って書けばよいと、下の節でも書きましたでしょ?--おーた 2008年6月29日 (日) 08:19 (UTC)[返信]
- ならば、東大新聞という限りなく東大当局寄りの出典を外部リンクでつなげたことで、おーたさんには、この件について異存ございませんね?--チハ 2008年6月29日 (日) 08:31 (UTC)[返信]
- 出典としては宜しいのではないでしょうか。できればチハさんにはスキャンダルだけではなく、ポジティブな業績にも触れた中立的な編集をやっていただきたいとは思うのですが、多くは望みません。Wikipediaはボランティア達が出来る範囲で貢献して成り立つプロジェクトですから。ただ、スキャンダルだとかトリビア事項の書き込みだけに集中した編集を続けるならば、今回のような軋轢は再び引き起こすでしょうねということは、老婆心ながら付け加えさせていただきます。--おーた 2008年7月1日 (火) 12:00 (UTC)[返信]
(インデント戻し)
>利用者:Lipshand氏が捨てIDで削除したのはおかしいと取り上げただけですよ。(中略)「正の評価」を書きたければ、ご自分でお書きになったらいかがですか?
チハさんの本来の主張は「本人に不利な記述は、とにかく削除するという傾向を持つウィキペディアンが最近、増えている」のはおかしいであって、「捨てIDで削除したのはおかしい」ではありませんよね。ご自身の主張をもう一度見直してください。それから、チハさんはわざわざリンクを記事に掲載して「負の評価」を積極的に載せたがっているのに、なぜ「正の評価」については他人任せなんですかね? あなたは、ただ単に「とにかく削除する傾向」があるのはおかしいという主張をしているだけではなく、「負の評価」を掲載する編集をしているわけです。そこまでされるのであれば、なぜ「正の評価」についてご自身で投稿しようとされないのですか? 私は似田貝氏の研究・教育上の実績についてはよく知りませんので、投稿はいたしません。
>大学業界の常識を、世間一般の人に知らせることに、ウィキペディアとして何か問題がありますか?
なにやら微妙に論点をずらしているようですが、私は「それを理由として掲載することはWikipedia:検証可能性の方針に反する」と前置きした上で、書いていますよね。「大学関係者なら知らない人はいないような常識」を理由としてWikipediaには掲載することはできないと言うことなんですけど? お分かりになりませんでしたかね?
>「(帝京大学の)大学関係者が知っているだけ」と、何を根拠にしてか、カッコ書きながら「帝京大学の」と付け加えていますが、そんなことはありません。
ご自身で「『帝京の女帝』は、大学関係者なら知らない人はいないような常識」と書かれていますよね。「大学関係者」というのは「大学」の関係者であって「大学業界」の関係者ではありませんよね。つまり、上記文章を読んだ限りでは「大学」とは「帝京大学」のことを指し、「関係者」とは「帝京大学」の関係者を指すという当然のことを書いたまでです。
>けれども皆さん「常識として知っている」という類の問題です。
チハさんは「大学関係者なら知らない人はいないような常識」とおっしゃっています。つまり、最初に範囲を限定して語っているのにも関わらず、今度は「皆さん『常識として知っている』」と一般化して語るのはよろしくありません。少なくとも、私にとっては「常識」ではありません。
どうも瑣末な議論を繰り返してしまうような状況になっていますね。正直な話、チハさんは「議論のための議論」を繰り返しているように見受けられます。もうすこし論点を絞って議論をしてはいかがですかね? --M.M 2008年6月29日 (日) 13:54 (UTC)[返信]
1)似田貝香門の専門が「社会正義」であるという主張について
朝日新聞の該当記事に典拠がありますが、社会学者が著書および論文で、かつてそのような主張をしたことがあるとは、
寡聞にして存じません。
少なくとも、私は「社会正義」が専門であると主張する研究者に出会ったことはありません。
マスコミの一次資料は、まず疑ってかかる必要があるのではないでしょうか。
当該記事において、「社会正義」とは、記者が文章を展開していく上での重要な柱となっているように思慮されます。
なお、客観的に述べれば、似田貝香門の専門は、地域社会学・都市社会学であると考えられます。
2)「カラ出張」という表現について
中立性を欠く表現であると思われます。
読者は、議員の「カラ出張」と同質のものを連想するでしょう。この表現も朝日新聞の該当記事に典拠があります。
当時、研究者集団における「科研費の不適切処理」は、学生教育や研究のための流動資金を捻出する一手段として一般化しており、
朝日新聞がこの問題を取り上げるまで、研究者倫理に抵触する問題とは捉えられていませんでした。
むしろ学生教育に熱心な研究者が、自身の研究費を学生に分配する行為は、奨励はされぬまでも良い研究者の指標とされていたように
思われます。
3)科研費という競争的資金の根本問題を研究者の個人的問題に帰責させることについて
朝日新聞が比較的高い職位にある研究者を人身御供として、ネガティブキャンペーンを行ったことは
、社会の木鐸を自称するマスコミの研究活動への認識の乏しさを端的に示す事例と言えるでしょう。
高等教育機関における研究・教育とは、次世代のわが国を背負う人材を育成するという、世代間の貴重な営みの連鎖であることを
忘れてはなりません。
マスコミの研究への理解が増大し、わが国の研究・教育活動が国際的視野で発展していくことを切に願います。
--利用者:Lizg 2008年7月13日 (日) 23:31 (UTC)[返信]
- 似田貝香門が「社会正義」を自らの研究のキーワードにしていたことは、『研究・教育年報 7 2002~2003』からも確認できます。[1]。注が『朝日新聞』ではなく『東京大学新聞』であることもお忘れなく。--チハ 2008年7月14日 (月) 12:50 (UTC)[返信]
- (Lizgさんへ)「中立性を欠く表現である」というご懸念はもっともだとは思いますが、いきなり該当記事を削除してしまうのではなく、当該ノートで記事の掲載の是非ならびに掲載方法等について合意を得ることをお勧めします。積極的に掲載すべきとする投稿者がいるような記事の場合、削除と復帰を繰り返す編集合戦に陥る可能性があります。こういう類の問題に対しては、まず議論によって合意形成を図ることがWikipediaの基本ルールですので、そこのところを留意していただきたいと思います。
- (チハさんへ)自ら引っ張ってきた出典はよく読んでから、反論すべきではないですか? あなたが似田貝氏が「社会正義」を専門にしているという根拠である東京大学HPにおける似田貝氏の紹介ページですが、どこにも「社会正義」が専門であるということは書かれていませんよ。「従来のボランティア論の入り口を超えた、チャリティとしてのボランティアから、ソウシャル・ジャスティスとしてのボランティア論の理論的構築を可能ならしめることに貢献すべきであろう。」という記述は、ボランティアの理論を社会正義という視点から捉えるという考え方を示しているものです。つまり、これまでのボランティア論の視点(支援するという観点)とは異なるところから理論を構築すべきという文脈から「社会正義」を取り上げているのであり、「社会正義」を専門にしているわけではありません。よくご覧になってください。しかも、「自らの研究のキーワード」と言い換えていますが、研究のキーワード=専門ではありません。チハさんは、ご自身の主張に合わせて記述内容を独自に解釈する傾向が見られますが、よく内容を熟読のうえ投稿されるようご注意いただきたいと思います。--M.M 2008年7月14日 (月) 15:09 (UTC)[返信]
- 「似田貝香門が「社会正義」を自らの研究のキーワードにしていた」と書いたのが読めないのでしょうか? M.Mさんの日本語読解力を疑います。前に書こうかと思ったのを控えたのですが、「議論のための議論」をしているのは貴殿ですよ。--チハ 2008年7月15日 (火) 13:13 (UTC)[返信]
M.Mさんのご意見に賛同します。チハさんはご自身が「社会正義」を体現されているおつもりのようです。科研費問題の本質に触れず、現存する私人の履歴に「カラ出張」「処分」を記述することは、「社会正義」を装った私人への中傷に当たる行為です。この履歴を読む人は、その人物が「社会正義」にもとる不正行為を行ったと理解するでしょう。私人を永久に貶めるようなWikipediaの記載は不適切だと考えます。
- ここは「科研費問題の本質」を論じる場所なのでしょうか?--チハ 2008年7月15日 (火) 13:13 (UTC)[返信]
科研費の「不適切な」処理については、当時は、どの研究者も普通に行っていたため、マスコミは取り上げませんでした。N氏のスクープは、朝日が東大たたきの一環として行ったキャンペーンの一つです。
- あれが「朝日が東大たたきの一環として行ったキャンペーンの一つ」とする具体的なソースをどうぞ。でなければ、最大限好意的に解釈しても「独自研究」の域を出ません。普通に解釈すれば「願望」です。--チハ 2008年7月15日 (火) 13:13 (UTC)[返信]
なお社会学における「社会正義」とは、「社会的公正」として理解するのが妥当です。朝日新聞やチハさんのように、個人を糾弾する論理として用いるのは、甚だしい誤用です。
--利用者:Lizg 2008年7月15日 (火) 00:31 (UTC)[返信]
- 新聞記事は、ウィキペディアにおいて推奨されるソースのひとつです。しかも、あの事件を報じたのは『朝日新聞』だけではありません。Lizgさん独自の見解よりは、新聞記事の方が一般的に広く受け容れられています。--チハ 2008年7月15日 (火) 13:13 (UTC)[返信]
他社は追随しただけでしょう。「カラ出張」という表現も、最初のスクープ記事の流用です。
その後の他紙の社説では、「科研費問題の本質」についても論じられていますよ。
Clemさんの研究のおかげで、見違えるほど立派な項目になりましたね。
--利用者:Lizg 2008年7月15日 (火) 23:46 (UTC)[返信]
- 無意義な他社の「特ダネ」は黙殺するのが新聞の常ですが。朝日以外の新聞記事が、単なる「最初のスクープ記事の流用」だという根拠を示して下さい。全然答えになっていませんね。--チハ 2008年7月15日 (火) 15:04 (UTC)[返信]
「カラ出張」という表現の話を申し上げたのですが… 「朝日以外の新聞記事が、単なる「最初のスクープ記事の流用」」とは、どういうことでしょうか?
水掛け論になりますので、もう申し上げません。
--利用者:Lizg 2008年7月16日 (火) 00:27 (UTC)[返信]
- 「カラ出張」だとする朝日以外の新聞記事が、朝日による「最初のスクープ記事の流用」だと決め付けているのは、貴殿に他なりませんが。その根拠を示して下さい。朝日以外の新聞社編集局が、似田貝の行為を「カラ出張」だと主体的に判断したのではないという証拠を。--チハ 2008年7月15日 (火) 16:06 (UTC)[返信]
- (チハさんへ)「研究のキーワード=専門ではありません」という記述は無視ですか? 人の日本語能力を云々する前に、ご自身の主張のおかしなところを検証されるべきではないですかね。あなたが根拠として持ち出してきている東京大学HPにおける似田貝氏の紹介ページには、「社会正義が専門」ということはどこにも書かれていないということを申し上げているんですけど、まったく分かっていないようですね。それから、「ここは『科研費問題の本質』を論じる場所なのでしょうか?」というように、あなたは相手の主張の本質的な部分をはぐらかし、瑣末なことをいちいち取り上げて議論をしていることを「議論のための議論」だと言っているんですけどね。それすらもお分かりでない。まず反論をする前に、ご自分の主張の本筋を見極めるべきではないですか? 端から見ていて、ただ単に似田貝氏の科学研究費補助金の不正流用の事実を載せたいがために、論を張っているようにしか見えません。Lizgさんが問題とされているのは、そこだと思いますけど。
- (Lizgさんへ)「朝日が東大たたきの一環として行ったキャンペーンの一つです。」という主張については、私も正直納得できません。科学研究費補助金の不正流用は、東大に限らず使途について不適切な使用があったとされる国公私立大学が取り上げられ、問題とされています。またLizgさんがおっしゃる科研費の不適切な流用問題の本質的な部分は、制度そのものの欠陥ということをおっしゃっているのでしょうが、そのことを持ち出すと議論が拡散してしまいますので、控えていただければと思います。ここでの議論の本題は、似田貝氏の経歴上不利となる記事を載せることがどこまで許容されるかということになるかと思います。--M.M 2008年7月15日 (火) 19:00 (UTC)[返信]
- (追記)チハさんならびにLizgさんは、記事:似田貝香門でのリバート合戦により短期ブロックがかけられたようです。--M.M 2008年7月15日 (火) 19:16 (UTC)[返信]
(M.M さんへ)承知いたしました。N氏の場合、「流用」等の記述は事実と異なりますので、1)「科研費の不適正な会計処理の責任を取り辞職」した等の事実に基づく記述に差し替えるか、2)N氏が東京大学執行部に籍を置いていたために(従来の基準を相当程度凌駕する)社会的制裁・学内処分を受けた(また、現在もWikipediaの記述によって社会的制裁を受け続けている)ことを鑑み、不利な記載は行わないかのどちらかだと思います。
--利用者:Lizg 2008年7月17日 (水) 00:27 (UTC)[返信]
- Lizgさん、こんばんは。M.Mです。さて、Lizgさんが挙げられた上記2点のうち、不掲載とするという点に関してですが、残念ながら似田貝氏の経歴を語る上で、科研費の不適切な流用は避けて通れない事実ではないかというのが、議論に参加している皆さんの共通認識になりつつあると思いますので難しいかもしれません。そして、科研費の不適切な流用ということが社会問題化していることからもWikipediaの基本方針にある「特筆性」に該当するとも思われます。ただし、チハさんが投稿したような「科学研究費補助金(科研費)不正流用、カラ出張が発覚し副学長を辞職」という表現は、妥当ではないと思っています。主な理由としては、出典としている東京大学新聞には「カラ出張」の事実が記載されていないということです。それから私は、チハさんが「特定の立場を推し進めるために、都合の良い材料を寄せ集めて作成した内容を、記事に加えてはいけません」というWikipedia:独自研究は載せないの公式方針を省みずに編集を行っていることが問題であるとも考えています。この件については、先に私が「負の評価を載せるのであれば、正の評価も載せるべき」として指摘している部分とも関連してきます。議論に参加されているClemさんやおーたさんもこの点については、見解は一致していると思います。「負の評価」を載せようとする前に、その人物の「正の評価」があればそれを積極的に載せなければ公平性は確保できません。これは、Wikipedia:中立的な観点が求めていることでもあります。これらの点を鑑みて、記事の編集には慎重にならなければならないでしょう。
- そこで記載内容についてですが、Lizgさんが挙げられている1)の記述でよろしいのではないかと思います。東大新聞の記事もそのように記載されていますしね。似田貝氏が事実を隠蔽しようとしたのではなく自ら認めて辞任しているわけですから、その点は記事に反映させてもよいと思います。--M.M 2008年7月17日 (木) 11:47 (UTC)[返信]
M.Mさんのアドバイスに従って、Wikipediaに若干の修訂を加えました。
--利用者:Lizg 2008年7月17日 (木) 13:07 (UTC)[返信]
私の知る限り、教育・研究資金を準備するために、科研費の枠内で支出予定額の一部を現金化することは、当時は、どの研究機関でも普通に行われていました。それによって、無給の院生が研究活動や学会活動に従事することをサポートしていたわけです。教育活動に熱心であったN氏が、有名大学の執行部に名を連ねていたというだけでマスコミに取り上げられ、永劫、Wikipediaの教育歴に「負の評価」を刻印され続けるのは、少々気の毒に思えます。
受難は、いつの時代にも起こり得ますが、これはWeb2.0時代の悲劇と言えるかもしれません。
--利用者:Lizg 2008年7月17日 (木) 13:31 (UTC)[返信]
- 院生の研究や学会活動のサポートのために科研費を支出していたということについては、もし明示的な資料があれば載せてもよいのではないかと思います。ただし、それを載せた場合、2つマイナス要素が浮上してくることも考えられますので、ご注意いただいたほうがよいと思います。1つ目は、科研費問題の部分のボリュームが増えるので、閲覧者の目が必要以上に、そこに向けられるようになるということ。2つ目は、似田貝氏の代弁を行っているようにみえるので、記述の内容について閲覧者から好感を持たれない可能性が高いということ。とりあえず、現状はLizgさんが編集された内容のママにしておいた方が無難だと思います。他にもっと良い掲載方法があればよいのですけどね。記事に取り上げた人物の名誉を尊重しつつ投稿するというのは、様々な人が編集に参加するWikipediaでは、なかなか難しいものです。--M.M 2008年7月18日 (金) 10:54 (UTC)[返信]
(M.Mさんへ)ご意見ありがとうございました。私も、そのように思います。
--利用者:Lizg 2008年7月18日 (金) 15:31 (UTC)[返信]
掲題の件について、2008年3月1日(土)18:59の編集にて関連の履歴が
このように削除され、チハ氏によって復活されました。
そのことの是非についてですが、国立大学の公的な職歴は記載されるのは何ら問題ないと思います。ですから、副学長の就任・辞任・抵触の履歴については記述して構わないと考えます。任期を待たずして副学長を辞任されていますし、停職がそれに続いていますから理由がはっきりしているなら、それも書くべきでしょう。ただ、Wikipedia:存命人物の伝記の示すガイドラインそって、こうした本人の不名誉にあたる記述はかなり慎重に書く必要があり、信頼できて中立で検証可能な出典をきちんと明記するべきであります。記述を戻したチハさんには、そこは責任もって出典を出していただきたいです。
なお、削除編集を行った、利用者:Lipshandについていえば、投稿歴からみて、似田貝香門氏の関係者でしょうね。--おーた 2008年6月28日 (土) 15:57 (UTC)[返信]
- 似田貝香門の副学長辞職、停職処分に関する東大新聞の記事を、Internet Archiveから引いてきました。--チハ 2008年6月28日 (土) 17:15 (UTC)[返信]
- 外部リンクとして項目を立ててリンクを掲載していますが、ことさら「似田貝香門の副学長辞職、停職処分」を強調するような編集は差し控えるべきです。該当項目の脚注にリンクを掲載するように編集しなおしてはいかがですか?--M.M 2008年6月29日 (日) 00:20 (UTC)[返信]
- 脚注化した方が親切ですね。そうしました。そんなことくらい、いちいち私に了解を得なくても、ご自分でおやりになって構わないと思いますが。--チハ 2008年6月29日 (日) 02:55 (UTC)[返信]
- 今までに、編集しなおすと「勝手なことをするな」とばかりにリバートする人がいたので、いちおう合意を得ておいた方がよいと思ったまでですが、何か気に入りませんでしたかね?--M.M 2008年6月29日 (日) 13:57 (UTC)[返信]
結構、大事な話なので項目を立てます。
Clemさんの
- しかし、「本人の業績にとって重要(relevant)なもの」かどうかを判断する基準はどこにあるのでしょうか。これも「第三者の媒体による信頼できる情報源」によるとなれば、話は楽なのですが、重要かどうかを、このページで展開しかけているようにノートページの参加者で議論して恣意的に決めるしかないというのであれば、わたしは参加を自制したいと思います。
- もっと「建前」のレベルで本記述の掲載の可否を決めることにはなっていないのでしょうか。
という疑問は、まことにもっともなものであり、Wikipedia編集をそれなりに進めていけば誰もがぶつかるものだろうと思います。
この判断基準について、Wikipediaで言われるのは「コミュニティの合意」です。ノートページの数人の参加者かもしれませんが、足りなければノート:赤川学でclemさんがやったようにコメント依頼を出して呼びかけて集まった参加者による合意です。そして、おおよそお分かりでしょうが、この判断基準には濃淡があります。分野が異なれば、コミュニティの見解が相当に異なってくるのはWikipediaの現状です。だからこそ、各種のガイドラインが提示されて、そのブレを縮小させ、最低限守ってもらうべきこと(著作権関連や、人権関連ですね)を示している訳です。
とはいうものの、2ちゃん系の情報提示のあり方が常識化している方々に対して、「それはWikipediaのガイドラインから外れている」ということを説得するのは大変な作業であり、今も各所でそれは続いている訳なのですけれど。サブカル関係は、いまだに酷い状態が続いているなというのが、私の感想です。
それはともかく、この「コミュニティの合意」についてClemさんが「そんな恣意的なもので、判断基準を決めたくない」と仰る気持も分らなくもありません。百科事典の記述は本来、そのことをよく知っている人(しかも、中立的に書ける人)が執筆・編集するべきですからね。スキャンダルとトリビア事項しか知らないのに訳知り顔に記事を書きたがる人ばかりが跡を絶たないというのは、本当に憂慮すべきことです。しかし、ガイドラインで「すぐに削除するべき」とされている事項以外なら、「ほんの少しだけかもしれないけれど良い記事にする」ぐらいの気持で加筆して構わないと思いますし、議論にも参加すればよいのではないでしょうか。Wikipediaは時間をかけるプロジェクトですから、そこからボチボチとやっていくしかないと考えます。--おーた 2008年6月29日 (日) 04:55 (UTC)[返信]
- おーたさんにいただいた以上のコメントは、わたしが本Wikipediaに参加して以来、最も心のひだに染みいるものでした。ありがとうございます。正直なところ、今回の一連の議論の当初は、おーたさんに対して「どうしてこの方は、こうも強い口調でお話になるのだろう」との思いがあったのですが(すみません!)、以上のコメントからWikipediaにおけるおーたさんの日々の葛藤の一端をうかがい知ることができ、わたしの当初の印象が大変な誤解に基づくものであることが分かりました。重ねてお礼とお詫びを申し上げます。
- さて、件の問題に対してですが、わたしが掲載に慎重であったのは、「本人の業績にとって重要(relevant)なもの」かどうかを判断する基準」がよく分からないままに形成されるおそれがあるとみていたからですが、チハさんにご指摘いただいたように、(ごく外面的な意味で)教育業績にとって重要(relevant)であると考えればよいのだと思い至りました。(ちなみに、Wikipedia上の少なからぬ研究者の人物記事において、研究業績におけるWikipedia:特筆性がまったく見えてこないものが散見され、「一体どうなっているのだ」との思いがあったのですが、なるほど、経歴欄を教育業績としてみれば、そうした記事にも有意味性があると考えることができます(少なくとも、そう考えておいた方が精神衛生上よい))。したがって、わたしも、当該記述の掲載には反対致しません。これで「合意」が形成されたことになるかと思います。
- ノート:赤川学で書きましたように、わたしは、Wikipediaは正統/非正統の記述を併せ持ってこそ、「質・量ともに最大の百科事典」になることができると考えており、この立場とWikipedia:存命人物の伝記に示される保守性との折り合いに悩むところがあって、今回、議論させていただいた面があります。そして、この議論から見えてきたことは、人物記事において「コミュニティの合意」に委ねられている事案(すなわち、Wikipediaの方針文書では一意的に判断することができない事案)について正統/非正統の枠を超えて議論しようとすると、内部事情や裏事情に踏み込まざるを得ず、ノートページでそのような「怪しい」議論を繰り広げることになり、あげく、ご本人やその周辺の方に対して非常な迷惑をかけるおそれがあるということです。この点、大変、勉強になりました。
- しかし、件の問題の掲載を認めるからには、M.Mさんが上でご指摘されているように、負の評価を載せるのであれば、正の評価も一緒に載せるべきであるし、似田貝氏のWikipedia:特筆性は「教育」業績よりも「研究」業績にあると考えますので、いずれ、わたしの方で、氏の研究業績についてまとめておきたいと思います。
- 今回、わたしが通常の記事投稿を超えた議論に参加しようと思った背景理由は、とかく専門家にとってこのWikipediaの評判が悪く(とりわけ人物記事の「怪しさ」から醸し出される「得体の知れなさ」に対する忌避感があるようです)、参加が得られないことにあります。たとえば、社会学関連の記事は、大幅な加筆ないし新規立項は二週間に1、2本程度にすぎず、いまだ基本理論も基本概念もそのほとんどが十分に記述されていません(家族社会学等の分野別の記事になるとほぼ全滅です)。社会学に対する誤った情報が流布し、一般の方々の誤解が蔓延するなかで、この状況をなんとかしたいとの思いがあったわけですが、おそらくは性急に過ぎました(専門/一般知の境界を超えようとする現代社会学にとって、Wikipediaのプロジェクトはとても魅力的だと思うのですが)。以前、M.Mさんに、そして、今回、おーたさんにご教示いただいたように、Wikipediaは時間をかけて発展するプロジェクトであり、気長につきあう必要があることを、心に刻んでおきたいと思います。--Clem 2008年6月29日 (日) 16:20 (UTC)[返信]
- どうも。私に対するclemさんの初期印象「どうしてこの方は、こうも強い口調でお話になるのだろう」については猛省させていただきます。似たような紛争編集にあちこちで首を突っ込んでいると、知らず知らずに口調がキツくなっていくようであります。「また、バカモノが何か書いておるな」的な「上から目線」話調になっているのでありましょう。これはチハさんにも申し訳ないことをしたと感じております。
- それはともかく、Wikipedia日本版の社会学関係の項目編集が不足しているというのは私も痛感しています。Clemさんのような編集者に参加していただけることは大変頼もしく思っていますので、今後ともよろしくお願いします。--おーた 2008年7月1日 (火) 12:10 (UTC)[返信]