ノーサンブリア王国
ノーサンブリア王国(英:Kingdom of Northumbria、古英語:Norþanhymbra rīce)は、アングロ・サクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバーランドにあったアングル人の王国である。 王国の範囲は現在の行政区で言えば、ノース・イースト・イングランド、ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー、カンブリアを含むノース・ウェスト・イングランド、そしてスコティッシュ・ボーダーズまでの範囲に渡る。ノーサンブリアとは、ハンバー川より北の地方のことであり、ハンバー以南の地方はサウサンブリアと呼ばれた。 ノーサンブリアにはデイラ王国、バーニシア王国という2つの王国が並存していた。これらはときに対立し、ときに統一されてノーサンブリア王国 (6~10世紀) という1つの国になり、そしてまた分裂するということを繰り返した。2つの王家の伝説的な祖先が、オーディンの双生の息子、ベルデーグとウェグデーグとされているところからも、これらがもとは同じ部族であったことが推察される。 歴史ノーサンブリアに侵入したアングロ・サクソン人の一派のうち、半分は南で留まってデイラ王国を築き、もう半分はさらに北へ進んでバーニシア王国を建てた。593年に即位したバーニシア王アゼルヴリスは、周囲のブリトン人諸国を次々に制圧したのち、604年ごろには隣国デイラを侵略。デイラ王子エドウィンは亡命を余儀なくされる。615年頃、チェスターの戦いで、アゼルヴリスはポウイス王国、グウィネッズ王国、マーシアを破った。エドウィンはイースト・アングリアの王レドワルドの助力を得て、616年アイドル川の戦いでアゼルヴリスを破った。アゼルヴリスの息子たちは、北方スコットランドへ亡命した。 その後しばらくして、エドウィンは627年にキリスト教に改宗。ノーサンブリアを平和のうちに統治、マン島、ウェールズ北部のグウィネッズ王国にまで遠征、後年アングロサクソン社会のブレトワルダ(覇王)として記憶される事となる。しかし、632年にマーシアのペンダに敗れて戦死する。 エドウィンの敗死後、ノーサンブリア王国はバーニシア王国とデイラ王国に分裂。バーニシア王国はアゼルヴリスの息子インフリス(Eanfrith)が、デイラ王国はエドウィンの従兄弟であるオスリッチ(Osric)が治める。そしてバーニシア王国では、エアンフリッドが暗殺され、兄弟であるオスワルドが権力を握った。オスワルドはノーサンブリアの領域を着実に拡大。スコットランドのストラスクライドまで拡大する。またアイオワ島より聖エイダンを招聘。ケルト系キリスト教を再び普及、そしてリンディスファーン島に修道院を建立する事となった。対外的にはマーシアとの戦争を続行。しかしオスワルドはペンダに敗れ戦死した。 エドウィンの子オスウィンがデイラを継ぎ、アゼルヴリスの子にしてオスワルドの弟であるオスウィがバーニシアを継いだ。両国の争いは再び繰り返されることとなる。オスウィはデイラの併呑を目論んでオスウィンを殺害し、その姉妹のエアンフレドを妃とした。彼の時代の655年、ついにマーシアのペンダを破り、一時期は国力を回復、この功績によりブレトワルダとして記憶される事となる。しかし、670年にオスウィが没し、エアンフレドとの子エグヴリス(エグフリッド)が後を継いだ後、679年のトレント川の戦いで、またしてもマーシアに敗北、以降ノーサンブリア王国は衰え、加えてノルウェーより来襲したヴァイキングにより支配されていくが、954年にエリックが退位させられ、ウェセックス王国に併合されたことで消滅した。
文化ノーサンブリアはその黄金期において、イギリスにとって宗教の普及や拡散における重要な中心地となった。まず当時ケルト教会に属するアイオナ島(現在はスコットランド領)よりアイルランド人の修道僧がノーサンブリアに来訪、そしてこの地に修道院が根付くようになる。635年ノーサンブリア東岸のリンディスファーン島にアイオナ島より聖エイダンが来訪。リンディスファーンは一大修道院となり、後世ウィルフリッドや聖クスベルトのような人材を輩出した。またノーサンブリア貴族であったベネディクト・ビスコップ(en:Benedict Biscop)はローマを訪問、後にケント王国にあるカンタベリーの修道院長となった。さらに彼はモンクウェアマウス・ジャロー修道院(en:Monkwearmouth-Jarrow Abbey)を建設。この修道院はダブル・モナステリー(en:double monastery) - 男性と女性の修道士が同じ場所で礼拝を行う修道院で当時はこのような形態が多かった - となっており、このように今までケルト系教会の影響を受けていたノーサンブリア王国が直接ローマ教会の影響力も加わる事となった。またこの修道院では後世チェオルフリスやベーダのような人材を世に出している。 ノーサンブリアはまたブリテン島の美術の中心地として重要な役割を演じ、アングロサクソン、ケルト、ピクト、ビザンティンなどの美術要素を組み合わせた文化を作り上げた。有名な美術作品としてはリンディスファーンの福音書、聖クスベルトの福音書(en:St Cuthbert Gospel)、アングロサクソン様式に装飾された十字架であるラスウェル十字(en:Ruthwell Cross)やビューカースル十字(en:Bewcastle Cross)、またこれはアイオナ島で作られたものとされるが、ケルズの書が挙げられる。 664年のウィットビー教会会議の後、ノーサンブリア王国は今まで影響下であったケルト系キリスト教に代わり正式にローマ・カトリック教会の傘下となった。しかしその後もケルト系キリスト教の影響は続いており、その傾向はリンディスファーンの福音書にも見られる。またモンクウェアマウス・ジャロー修道院ではベーダが731年にイングランド教会史を校了、この書の内容の多くはノーサンブリアに関する著述で占められている。しかし8世紀になるとバイキングが侵略を始め、リンディスファーン修道院はヴァイキングによって731年略奪を受けてしまう。バイキングの侵略はアングロサクソン文化を阻み、その後もイスビー十字(en:Easby Cross)に見られる優れた美術作品を産出するものの、それまで文化の中心地として担っていたノーサンブリアはその役割を終えた。 現在でもノーサンブリア特有のタータンチェックが存在しており、古くからのタータン模様につながるものとされる。例えばフォルカークで見受けられるタータン様式はローマ時代(もしくはそれ以前)のユトランド地方のものと似ている。現在のタータンは白と黒の太線の交差ではあるが、古来のタータンは脱色していないウール地で黄色っぽい白、それにダークグレー、青、緑ないし茶色の色とりどりの線で交差したものである。この文様はボーダードラブ(Border Drab)とも呼ばれ、遠くからではタータンチェックの模様がカモフラージュ効果を生み出し、狩猟などに適したものとなるらしい。
系図バーニシア王家
デイラ王家数字は在位年。
関連項目参考文献
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