ノッテボーム事件ノッテボーム事件(ノッテボームじけん、英語:Nottebohm Case、フランス語:Affaire Nottebohm)とは、1951年12月17日にリヒテンシュタインがグアテマラに損害賠償などを求めて国際司法裁判所に提訴をし、1955年4月6日に本案判決が下された[注 1]国際紛争である。リヒテンシュタイン国内法に基づいてドイツ人がリヒテンシュタインに帰化したことが、第三国グアテマラに対抗しうるかが争点となり、国際法上の国籍付与の要件などが示された。 経緯フリードリヒ・ノッテボームは、1881年にドイツハンブルクに生まれたドイツ人であった[2]。1905年、ドイツ国籍を保有したままグアテマラに移住し、そこに生活の基盤を置いて商業や金融業に携わった[1]。ドイツには事業のためにときどき帰国するなどのつながりがあった[2]。しかしノッテボーム自身は、事件が発生したとされる1943年まで、グアテマラに住所を置いていた[2]。 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した[2]。ノッテボームはこの直前にドイツに渡り[1]、その後リヒテンシュタインのファドゥーツを何度か訪れた[2]。10月9日、ノッテボームはリヒテンシュタインへの帰化申請を行った[2]。リヒテンシュタインでは、国籍法で帰化条件の一つに3年間国内に居住することを定めていたが、ノッテボームは帰化税と共同体加入金を支払うことによってこの条件を免除され[1]、10月13日にはリヒテンシュタイン公の決定に基づき、リヒテンシュタイン政府からノッテボームが帰化した旨の証明書が発給された[2]。また、ハンブルク市はノッテボームがドイツ国籍を喪失したことを示す文章を発給している[2]。 ノッテボームはリヒテンシュタイン人として同国のパスポートを取得し、1939年12月1日に在チューリッヒグアテマラ総領事から査証を受けて翌年グアテマラに戻り、以前の事業を再開した[2]。グアテマラ入国後ノッテボームはグアテマラ外務省にリヒテンシュタイン国籍を取得したことを通知し[2]、グアテマラの外国人登録簿にこの国籍変更が記載された[1]。 グアテマラとドイツは1941年から交戦状態にあり[2]、1943年になるとグアテマラはノッテボームを敵国人として逮捕した[1]。その後ノッテボームの身柄はアメリカ合衆国に移送され、1946年までそこで抑留生活を送った[2]。戦争が終了し解放されたノッテボームはグアテマラに入国しようとするが、グアテマラ政府は入国を拒否[2]、やむなくリヒテンシュタインへ向い[1]、その後そこで生活を送ることとなる[2]。 1944年12月20日、グアテマラはリヒテンシュタインによるノッテボームへの国籍付与を認めない旨を宣言した[1]。また同年、グアテマラでは同国国内にあるノッテボームの財産を収用するために多数の裁判が起こされた[2]。1949年には戦争によって生じた事項の精算に関する法律が制定され[1]、最終的にグアテマラ政府は補償なしにノッテボームの財産を収用した[2]。 1951年12月17日、ノッテボームの請求に基づき、リヒテンシュタイン政府はノッテボームの財産返還とリヒテンシュタインに対する損害賠償を求めて、グアテマラを国際司法裁判所に提訴した[1]。 両国の主張
判決要旨国際司法裁判所が下した判決を概説する。
批評ドイツ国籍を喪失したノッテボームの場合、リヒテンシュタイン国籍が認められないとすれば、彼は無国籍者と同じ状況に置かれてしまい、結局どの国からも外交的保護を受けることができない状況になってしまうという点で、本判決で示された「真正な結合」理論は批判されることがある[1][2]。 注釈
出典
裁判資料
関連項目外部リンク
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