ネヴィル家の紋章
ネヴィル家 (英 : Neville family )は、イギリス の貴族の家系。中世期にはパーシー家 と双璧するイングランド北部の最有力貴族だった。ウェストモーランド伯爵 ネヴィル家を嫡流とし、分流も婚姻などを通じて数多くの爵位や領地を得た。薔薇戦争 期に「キングメーカー」として著名となった第16代ウォリック伯爵 リチャード・ネヴィル も分流の一人である。ネヴィル一門が保有した爵位の多くはすでに廃絶したり剥奪されたりしているが、2020年 現在も残っている世襲貴族 のネヴィル家にアバーガヴェニー侯爵 ネヴィル家がある。
歴史
レイビー城 (英語版 )
ネヴィル家は13世紀 初期に台頭し、ダラム州 のレイビー城 (英語版 ) を本拠とした[ 2] 。ラナルフ・ネヴィル (英語版 ) (1262-1331) が1295年 6月24日 にレイビーのネヴィル男爵 (英語版 ) として議会招集令状(writ of summons) を受けたのがイングランド貴族 としてのネヴィル家の始まりである[ 3] 。
第2代ネヴィル男爵ラルフ・ネヴィル (英語版 ) (1291頃-1367) は、第2代パーシー男爵 (英語版 ) ヘンリー・パーシー (英語版 ) とともに辺境警備長官となり、1346年 にはネヴィルズ・クロスの戦い でスコットランド軍の撃破に貢献した。
第3代ネヴィル男爵ジョン・ネヴィル (英語版 ) (1340頃-1388) は、百年戦争 でフランスと戦い、晩年には国境付近でスコットランドと戦った。またその弟アレクサンダー・ネヴィル (英語版 ) は、ヨーク大司教 としてリチャード2世 の側近となったが、1388年 に訴追派貴族 の策動で非情議会 で訴追されたため、フランドル に亡命を余儀なくされた。
第4代ネヴィル男爵ラルフ・ネヴィル (1364頃-1425) は、1397年 にリチャード2世の反撃で捕らえられた訴追派貴族の裁判にあたり、その功績で、同年9月29日 にイングランド貴族ウェストモーランド伯爵 (Earl of Westmorland) に叙位された[ 6] 。しかしその後ヘンリー・ボリングブルック (ヘンリー4世)によるリチャード2世からの王位簒奪に協力。ヘンリー4世即位後にはその重臣となり、初代ノーサンバーランド伯 ヘンリー・パーシー とリチャード・スクループ (英語版 ) らの反乱を鎮圧した。
初代ウェストモーランド伯の長男ジョン・ネヴィル (英語版 ) (1387頃-1420) の系譜がウェストモーランド伯爵位を継承していく。ジョンの息子である第2代ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル (英語版 ) (1408–1484) は、パーシー家の娘と結婚した。5代ウェストモーランド伯ヘンリー・ネヴィル (英語版 ) (1525–1564) は、カトリックとしてメアリー1世 を支持した。その息子の6代ウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィル (1542–1601) もカトリックだったが、1569年にノーサンバーランド伯爵 家とともに北部諸侯の乱 (英語版 ) を起こしたことで国外亡命と爵位剥奪に追いやられている。レイビー城をはじめとする所領も没収され、嫡流にあたるウェストモーランド伯爵ネヴィル家はこれで終焉した。
この嫡流と別に初代ウェストモーランド伯の三男リチャード・ネヴィル (1400-1460) は、第5代ソールズベリー女伯爵 アリス・モンタキュート (英語版 ) と結婚したことで妻の権利 (英語版 ) により第5代ソールズベリー伯爵となった[ 7] 。しかし薔薇戦争 勃発後、義弟の第3代ヨーク公 リチャード を支持したため、ウェイクフィールドの戦い 敗北後にヨーク公とともに処刑された。その息子のリチャード・ネヴィル はウォリック伯爵 ビーチャム家のアン・ビーチャム と結婚したことで妻の権利で16代ウォリック伯爵となり、後に母親からソールズベリー伯爵位も継承した。彼は薔薇戦争期にその動向が二度にわたって国王の即位や復位を左右したので「キングメーカー 」と称されたことで著名である。はじめヨーク派に属して1461年 にエドワード4世 がヘンリー6世 を追ってヨーク朝 を開くのに貢献し、没収されたランカスター派貴族の所領を次々と与えられてイングランド最有力貴族となったが、次第にエドワード4世と対立し、ランカスター派に転じてエドワード4世を追い、1470年 にはヘンリー6世を一時的に復位させた。しかし翌1471年 には体勢を立て直したエドワード4世の反撃でバーネットの戦い に敗れて敗死している。その弟ジョン・ネヴィル もヨーク派として戦ったため、エドワード4世即位後の1464年 5月27日 にノーサンバーランド伯爵位を与えられたが、その後パーシー家にノーサンバーランド伯爵位の回復が認められたために1470年 3月25日 に改めてモンターギュ侯爵 (Marquess of Montagu) に叙位された。しかしこの処置に不満を抱き、兄とともにランカスター派に転じてバーネットの戦いで敗死した。その息子ジョージ・ネヴィル (1461頃-1483) は1470年1月5日にエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨーク との結婚を見越してベッドフォード公爵 (Duke of Bedford) に叙位されたが、父がランカスター派に転じて敗死したため、エリザベスとの婚約は破談となり、さらに1478年 には議会法によって「名誉ある地位を保てるだけの財産がない」とされて爵位をはく奪されている[ 9] 。
他にも初代ウェストモーランド伯の八男ウィリアム・ネヴィル (1410頃-1463) はフォーコンバーグ男爵 (英語版 ) やケント伯 に叙され、十男ジョージ (英語版 ) (-1469) はラティマー男爵 (英語版 ) に叙位された[ 6] 。
そして初代ウェストモーランド伯の十一男エドワード・ネヴィル (?-1476) は、第3代バーガヴェニー女男爵 (英語版 ) エリザベス・ビーチャム (1415–1448) と結婚したことで1450年 9月5日 の議会招集令状 (英語版 ) でバーガヴェニー男爵(もしくはアバーガヴェニー男爵) (英語版 ) (Baron Bergavenny or Baron Abergavenny)として議会に召集された。バラ戦争ではほかの兄弟と同様にヨーク派に属した。
このバーガヴェニー男爵ネヴィル家の系譜は現代まで存続しており、17代バーガヴェニー男爵ジョージ・ネヴィル (1727–1785) の代の1784年 5月17日 にグレートブリテン貴族 アバーガヴェニー伯爵 (Earl of Abergavenny) とケント州におけるビアリングのネヴィル子爵 (Viscount Nevill, of Birling in the County of Kent) に叙せられた[ 10] [ 11] 。さらに5代アバーガヴェニー伯爵ウィリアム・ネヴィル (英語版 ) (1826–1915) の代の1876年 1月14日 に連合王国貴族 アバーガヴェニー侯爵 (Marquess of Abergavenny) とルイス伯爵 (Earl of Lewes) に叙せられた[ 12] [ 13] 。5代アバーガヴェニー侯爵ジョン・ネヴィル (1914–2000) の死去の際に議会招集令状による爵位であるバーガヴェニー男爵位は停止 し、アバーガヴェニー侯爵位以下男系男子に限定される勅許状の爵位は甥のクリストファー・ネヴィル (英語版 ) (1955-) (6代アバーガヴェニー侯爵)に継承された。2020年 現在の当主も彼である[ 13] 。
系図
紋章
Category:Neville arms 参照
出典
^ Emery, Anthony (1996). Greater Medieval Houses of England and Wales, 1300–1500, Volume I: Northern England . Cambridge: Cambridge University Press. p. 123. ISBN 978-0-521-49723-7
^ Heraldic Media Limited. “Nevill, Baron (E, 1295 - 1571) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2016年5月4日 閲覧。
^ a b Heraldic Media Limited. “Westmorland, Earl of (E, 1397 - forfeited 1571) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2020年5月2日 閲覧。
^ Heraldic Media Limited. “Salisbury, Earl of (E, 1337 - 1471) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2020年5月3日 閲覧。
^ Heraldic Media Limited. “Montagu, Marquess of (E, 1470 - degraded 1478) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2020年5月3日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “George Neville, 1st Earl of Abergavenny ” (英語). thepeerage.com . 2016年6月11日 閲覧。
^ Heraldic Media Limited. “Abergavenny, Earl of (GB, 1784) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2016年6月11日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Sir William Nevill, 1st Marquess of Abergavenny ” (英語). thepeerage.com . 2016年6月11日 閲覧。
^ a b Heraldic Media Limited. “Abergavenny, Marquess of (UK, 1876) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2016年6月11日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Uchtred fitz Maldred ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Dolfin fitz Uchtred, Lord of Raby ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Maldred fitz Dolfin, Lord of Raby ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Geoffrey (VI) de Neville ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Emma de Bulmer ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Robert fitz Maldred, Lord of Raby ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Isabel de Neville ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “CGeoffrey (VII) de Neville ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Robert (I) de Neville, Lord of Raby ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
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^ Lundy, Darryl. “Alexander de Neville ” (英語). thepeerage.com . 2020年5月2日 閲覧。
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^ “Abergavenny, Baron (GB, 1724 - abeyant 1938) Creation: writ of sum. 12 Nov 1724 (with precedency of 1392) ”. Cracroft's Peerage . Heraldic Media Limited (2007年1月30日). 2016年11月7日 閲覧。
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参考文献