ネマニャ・ヴチチェヴィッチ(Nemanja Vučićević, セルビア語: Немања Вучићевић, 1979年8月11日 - )は、セルビア・ベオグラード出身のサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダーを主とする[1]。
来歴
7歳の時にサッカーを始め[3][2]、地元FKラド・ベオグラードの下部組織へ入団。
1996年にラドを離れプロサッカークラブを模索するが、中々契約に至らず、1998年になってセルビア・スルプスカ・リーガのRFKグラフィチャルに加入。プロキャリアをスタートさせた。グラフィチャルで実績を積み、2000年よりプルヴァ・リーガ(1部)のOFKベオグラードに加入。U-21セルビア代表にも選出された[6]。
2001年にはロシア・ヴィシーディヴィビジョン(1部・現プレミアリーグ)のFCロコモティフ・モスクワに移籍し、リーグ優勝とUEFAチャンピオンズリーグの出場を経験した。
2003年に再びOFKベオグラードに戻り、2004年、ドイツ・ツヴァイテリーガ(2部)のTSV1860ミュンヘンへ移籍。2006-07シーズンにはベルカント・ギョクタン (en) に次ぐチーム2位の9得点を挙げ[7]、ブンデスリーガ(1部)のVfBシュトゥットガルトを始めとする複数のクラブからオファーを受けたが[4]、ヴチチェヴィッチと彼の代理人は、好調を維持し更に得点を重ねればドイツ国内のトップクラブへも移籍できると考え、これらのオファーを拒否[4]。しかしその直後に負傷し[4]、結局2部の1.FCケルンへ移籍することになった。ケルンではクリストフ・ダウム監督の下、1部への昇格に貢献。2008-09シーズン第27節ボルシア・ドルトムント戦でファブリス・エレのアシストからブンデスリーガでの初得点を挙げた[8][9]。
2009年、セバスティアン・フライス (en) の加入に伴い[10][11]ケルンを退団し、イスラエル・プレミアリーグ(1部)のハポエル・テルアビブFCへ移籍。エリ・グットマン (en) 監督からリーダー格として大きな信頼を寄せられ[4]先発出場を続けていたが[12]、打撲による内出血から[4]深部静脈血栓症を発症したことで長期離脱を強いられた[13]。翌2010年はギリシャ・スーパーリーグ(1部)のAOカヴァラで症状の回復を図りながら[4]プレーを続けた。
2011年、2年契約で[4]キプロス・ファーストディビジョン(1部)のアノルトシス・ファマグスタへ移籍したが、ロニー・レヴィ (en) 監督に疎まれ[注 1]、半年で退団。2011-12シーズンの途中で加入したトルコ・シュペルリガ(1部)のマニサスポルは財政面などクラブ状況が悪く[4]、2部降格を喫した。
2012年7月より、同郷のランコ・ポポヴィッチが監督を務めるJリーグ1部・FC東京の練習にテスト参加し[14]、翌8月に加入が発表された[1]。同月18日のJ1第22節大宮戦で初出場[15]。早々とチームにフィットし[16]、J1第25節清水戦で初得点を挙げると[15]、その後全て途中出場ながら6得点を挙げ[15]得点率でリーグ1位となるなど[17]、スーパーサブとして活躍した[18]。2013年は靭帯損傷による離脱[19]などによる出遅れにより[20]得点ペースを落としたが、ポポヴィッチからは相手ゴール前での冷静さとミスを恐れない姿勢を高く評価されていた[21]。同年限りで退団[22]。
その後1年強の間無所属でいたが、2015年にインドネシア・スーパーリーグ(1部)・PSMマカッサルにおいて外国籍選手のセレクションに参加[23]。ストライカーとして認められ[24]同クラブに加入。しかしFIFAによる制裁でリーグ戦が休止となったため、帰国。
2016年、EUROビーチサッカーカップ (2016 Euro Beach Soccer Cup) に臨むビーチサッカーセルビア代表に選出[25]。また、同年のEUROビーチサッカーリーグ (2016 Euro Beach Soccer League) ではモルドバ戦及びカザフスタン戦でハットトリックを挙げるなど得点源としてチームを牽引した[26]。
所属クラブ
- ユース経歴
- プロ経歴
個人成績
- その他の国際公式戦
- 出場歴
代表歴
タイトル
脚注
- 注釈
- ^ ヴチチェヴィッチによれば、冷遇される理由を尋ねた際、レヴィは「(2009年に)ハポエル・テルアビブでプレーしていたから」と答えている。レヴィはイスラエルリーグでの長いキャリアを持つが、Hテルアビブとその選手を嫌っていた[4]。
- 出典
関連項目
外部リンク