ナジェージダ・リムスカヤ=コルサコヴァ
ナジェージダ・ニコラーイェヴナ・リームスカヤ=コールサコヴァ(ロシア語: Надежда Николаевна Римская-Корсакова, ラテン文字転写: Nadezhda Nikolaevna Rimskaya-Korsakova 発音, 1848年10月19日 – 1919年5月24日)は、ロシア帝国のピアニスト・作曲家。ニコライ・リムスキー=コルサコフと結婚して、後の音楽学者、アンドレイ・リムスキー=コルサコフを産んだ。 生涯生い立ち本名はナジェージダ・ニコラーエヴナ・プルゴリト(Надежда Николаевна Пургольд / Nadežda Nikolaevna Purgol'd)といい、サンクトペテルブルクに3人姉妹の末っ子として生まれた。9歳でピアノを始め、ペテルブルク音楽院に進んでアントン・ゲルケに師事し[1]、研鑽を積む。そのほかに音楽院では、音楽理論をニコライ・ザレンバに、作曲と管弦楽法をニコライ・リムスキー=コルサコフに師事したが、卒業はしなかった[1]。1860年代から1870年代にかけてアレクサンドル・ダルゴムイシスキー邸の夜の演奏会でピアノを弾き、ダルゴムイシスキー本人のほかに、モデスト・ムソルグスキーやアレクサンドル・ボロディンと親交を結んだ[2]。ムソルグスキーは、ナジェージダとその姉アレクサンドラに好意を寄せて、この二人に近づくようになり[3]、ナジェージダを「我々のオーケストラ」と呼んだ [1]。自宅の集会でも演奏し、ミリイ・バラキレフや、「五人組」のその他の同人の作品を披露した[1]。中でも「五人組」と一緒に演奏したのが、ムソルグスキーの歌劇《結婚》[4] や《ボリス・ゴドノフ》のほか、リムスキー=コルサコフの《プシコフの娘》であった[5]。 結婚ナジェージダは、1868年の春にリムスキー=コルサコフに見染められる。初めて知り合って間もなくリムスキー=コルサコフは歌曲を1つ創ってナジェージダに捧げた。また、サンクトペテルブルクのプルゴリト邸だけでなく、プルゴリト家の避暑地ルィエスノフの別荘にも足繁く訪れている[6]。ナジェージダもリムスキー=コルサコフに温かく穏やかな人となりを認めた[7]。1871年12月に婚約し[8]、1872年7月に二人は晴れて結婚した[9]。新郎の付添役はムソルグスキーだった[10]。新郎新婦は仲睦まじく、ゆくゆくは7人の子供を儲けることになる。 ナジェージダは、クララ・シューマンが夫に対してそうだったように、家庭内の伴侶であると同時に、音楽面でも協力者だった[9]。美しく、聡明で、強い意志を持ち、結婚当時は夫よりも音楽面ではるかに特訓されていた[9]ナジェージダは、夫の作品の優秀だがうるさ型の批評家だった。作品の題材において夫への影響があまりにも強かったために、バラキレフやスターソフは、ナジェージダのせいでリムスキー=コルサコフが、自分たち「五人組」の音楽的な好みから、道を踏み外してしまわないかと訝しむほどだった[11]。結婚後のナジェージダは、次第に作曲を諦めるようになったが、それでもリムスキー=コルサコフの最初の3つの歌劇は、かなりナジェージダの影響が認められる[12]。彼女は夫に協力して、リハーサルに出席し、校閲し、夫やそれ以外の作曲家の作品を編曲した[12]。ナジェージダがニコライ・ゴーゴリの作品に熱狂すると、夫やその友人たちの楽曲にも影響するようになった[13]。まだ婚約中のある日に、二人はゴーゴリの短編小説『五月の夜、または溺れた娘』を一緒に読んでいた。その後ナジェージダはリムスキー=コルサコフに、『五月の夜』を原作に歌劇を作曲するよう提案した[13]。それから1・2週間すると、彼女は未来の花婿に手紙で次のように書き送っている。曰く、「まだもう一つのゴーゴリの小説を読んでいます。今日のは『ソロチンスクの市』です。これも良い作品ですし、オペラに打ってつけでもあるでしょう。でも、“貴方”のにではありません。いずれにせよ、『五月の夜』とは別物です。私の頭はそいつに釘付けで、そいつときたら、どうしても頭の中から離れようとはしてくれないのです[13]。」当時ムソルグスキーに『ソロチンスクの市』のオペラ化を提案したのは、彼女か、さもなくば姉のアレクサンドラであったろう[13]。ムソルグスキーは当時は取り組まなかったのだが、2年ほどして考え直したのであった[13]。 ナジェージダは、リムスキー=コルサコフの社会生活においても非常に目立つ存在で[2]、主婦としても演奏家としても、リムスキー=コルサコフ邸の集会を切り盛りした[14]。ある夜の席で、ピョートル・チャイコフスキーが自作の《「小ロシア」交響曲》の終楽章を披露すると[15]、ナジェージダはそれを聞き終えてから、涙ながらに作曲者に、自分にその編曲を任せてくれないかと訴えるのだった[15]。運悪く病気に邪魔されたために、結局チャイコフスキー自身が《小ロシア》を編曲することになった[16]。 アレクサンドル・グラズノフは、自作の《ピアノソナタ第1番》作品74(1901年)をナジェージダに献呈した。 明け透けさ後年は夫と同じく、ナジェージダも音楽観があまり進歩的でなくなり、娘婿のマクシミリアン・シテインベルクに比べてイーゴリ・ストラヴィンスキーは頼りないと評価した。目に見えて物事に無神経になっていたのかもしれない。後にストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフの葬儀で起こったある出来事について、次のように記している。
彼女が物怖じせずに心の内を明かしたのは、これが初めてではなかった。夫に関することには非常に忠実だった。アントン・ルビンシテインが1887年にペテルブルク音楽院院長職に返り咲いて、ロシア人教授に代わって外国人教授を抜擢するようになると、ウラディーミル・スターソフは、「偉大な支配者様」に向かってリムスキー=コルサコフにひれ伏させるという考えに憤慨した。スターソフは、リムスキー=コルサコフ宛てに「連中と音楽院やルビンシテインとの関係は中央集権的だ(しかもツェーザリ・キュイに便乗すれば、完全な変節だ)」と書き送ったことをバラキレフに打ち明けている[18]。スターソフの手紙が届いた時、リムスキー=コルサコフはボロディンの遺作の歌劇《イーゴリ公》の仕上げに励んでいるところだった。返信はナジェージダが買って出た。
リムスキー=コルサコフが1908年に歿するや否や、ナジェージダは夫の著作物や楽曲についての遺言執行者となった[2]。そこには、遺作となった亡夫の著作や楽曲の校正と出版という、かなりの仕事も含まれていた[2]。自叙伝『わが音楽の生涯』や論文集、楽譜、友人たちとの往復書簡などがその対象だった[2]。ナジェージダは、夫の遺産の保管に余生を捧げ[2]、ロシア・バレエ団が《シェヘラザード》や《金鶏》をバレエ化した際には、セルゲイ・ディアギレフに抗議している[20]。 最期夫の死から11年後、ナジェージダはロシア革命後のペトログラードにおいて、天然痘により息を引き取った[2]。70歳だった。彼女はノヴォデヴィチ女子修道院の墓地の夫の隣に埋葬されたが、1936年にアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に、夫と共に改葬された。同墓地には五人組の他に、チャイコフスキーとグラズノフも埋葬されている。 歿後は息子アンドレイが亡母の尽力を受け継ぎ、亡父の生涯や作品について、複数の巻に及ぶ研究書を執筆している。 創作作曲ゴーゴリによる交響的絵画《魔法にかかった土地(ロシア語: Заколдванное мест)》や、歌劇《真夏の夜》のボーカルスコア、ピアノ曲や歌曲の自筆譜が現存する[12]。《魔法にかかった土地》が完成したのは結婚の1・2週間前のことだが、楽器配置を実施したのは翌年になってからである[13]。リムスキー=コルサコフと結婚してからは作曲を止めた[1]。夫の作品との好意的でない比較一部は原因があろうが、身内の反応にも原因はあるかもしれない[1]。 編曲オーケストラ用の総譜の簡約化の仕方はダルゴムイシスキーに教わっている[1]。ナジェージダは、簡約編曲の作業に才能や適性を見せており、それらを大いに利用して編曲した。彼女の(ピアノ4手用の)編曲は、ダルゴムイシスキーやリムスキー=コルサコフだけでなく、チャイコフスキーやボロディン、グラズノフまでを取り上げている[1]。歌劇の編曲では、リムスキー=コルサコフの《プスコフの娘》や《女貴族ヴェラ・シェロガ》のボーカルスコアや[1]、夫やグラズノフとの合作による、ボロディンの《イーゴリ公》のボーカルスコアといった例がある[21]。 著作関連ナジェージダ・リムスカヤ=コルサコヴァは、ダルゴムイシスキーの2巻の回想録を出版し、またムソルグスキーの言行録を書き遺し、夫の自叙伝『わが音楽の生涯』を校訂している[1]。 註記
参考文献
外部リンク
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