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トーマス・ハート・ベントン (画家) 」は
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(2020年8月 )
ベントンの作品をもとにした切手
トーマス・ハート・ベントン (Thomas Hart Benton または Tom Benton、1889年 4月15日 - 1975年 1月19日 )はアメリカ合衆国 の画家である。多くの壁画の制作などで知られる。
略歴
ミズーリ州 のネオショー(Neosho)に生まれた。父親のMaecenas Eason Bentonは法律家で4度アメリカ合衆国下院議員に選ばれた。美術に興味があり、10代の頃にはジョプリン の新聞、「Joplin American」に漫画を寄稿した。1907年にシカゴの美術学校 (School of the Art Institute of Chicago)に入学し、1909年からパリ に渡り、パリの私立美術学校アカデミー・ジュリアン で学んだ[ 3] 。パリではメキシコ出身の壁画画家のディエゴ・リベラ やアメリカ出身で「シンクロミズム」を推進することになるスタントン・マクドナルド=ライトと知り合い影響を受けた[ 4] 。1915年に帰国し、ニューヨーク で画家として働き、マンハッタンで、イラストレーターとしても知られるラルフ・バートン(Ralph Barton)と共同でスタジオを開いた。
第一次世界大戦中はアメリカ海軍に入隊し、ノーフォークの基地で造船に関わる書類などの説明図を描くことを命じられ、この仕事が自らの絵のスタイルに影響を与えたとしている。
戦争が終わった後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク で教え始め、教えた学生にはジャクソン・ポロック らがいる。モダニズムの絵画と対抗する立場をとり、ベントンは「リジョナリズム(Regionalism )」を推進する画家となった。1922年にイタリア移民の娘と結婚した。1932年にその翌年シカゴ で開かれる博覧会に展示される壁画のコンペティションで選ばれた。壁画に、有名な人物とともに白人至上主義 団体、クー・クラックス・クラン もベントンが描いたことから、論議を呼び、ベントンは有名になった[ 5] 。1934年12月には、雑誌「タイム 」の表紙を飾った。グラント・ウッド 、ジョン・スチュアート・カリー とともにアメリカ美術の旗手として取り上げられた。その後も多くの壁画を制作した。
カンザスシティ に移り、1935年からミズーリ州議会の壁画を描き、1935年から1941年までカンザスシティの美術学校(Kansas City Art Institute)で教えた。カンザスシティで亡くなった。
参考文献
^ “ULAN Full Record Display: Thomas Hart Benton ”. Getty Research. December 2, 2012 閲覧。
^ “Thomas Hart Benton Home and Studio State Historic Site ”. Missouri State Parks. December 2, 2012 閲覧。
^ “Thomas Hart Benton: Murals in the Missouri State Capitol ”. benton.truman.edu . 21 February 2015時点のオリジナル よりアーカイブ。1 March 2018 閲覧。
^ Craven, Wayne (2003), American Art: History and Culture , McGraw-Hill, p. 439 , ISBN 978-0-697-16763-7 , https://archive.org/details/americanarthisto0000crav/page/439 .
^ Indiana University (July 27, 2009), IU Art Museum opens doors to conservation of famed Thomas Benton murals , IU News Room, http://newsinfo.iu.edu/news/page/normal/11463.html September 15, 2011 閲覧。 .