デヴィッド・コンデデヴィッド・コンデ (David W. Conde, 1906年 - 1981年)は、アメリカ人の進駐軍の軍属、フリーランスジャーナリスト。D・W・W・コンデ、D.W.コンデ、D.コンデとも表記される。 カナダのオンタリオ州に生まれ、1932年にアメリカに帰化した。1945年10月から1946年7月まで軍属として民間情報教育局映画演劇課長になり、日本の映画会社に軍国主義的・国家主義的・封建主義的な内容の映画を製作することを禁じた[1]。労働組合の結成を奨励し、戦後最大の争議といわれる東宝争議の原因を作る。1946年〜47年にロイターのジャーナリストとして極東国際軍事裁判を報じた[2]。1947年「無許可の滞日」を理由に連合国軍最高司令官総司令部からビザを否定されて、国外退去となる[3]。コンデはこれをGHQの非難による処罰と考えていた[4]。 平野共余子の調査で、アメリカ共産党員であったことが明らかになっている[5]。1964年[6]以降たびたび日本を訪れ、主に『世界』や『朝日ジャーナル』などの雑誌や機関誌『月刊社会党』に寄稿し、『現代朝鮮史』『CIA黒書』『アメリカの夢は終った』などの時事評論を日本語訳で出版。著作は韓国でも出版された。しかし英語の草稿はあるものの、アメリカで出版されたものはない[2]。1960年代のコンデは在日米国人記者の中では特異な存在で、アメリカの政策批判やCIAの暗躍、米国企業の内幕を暴く報道が多く見られた[7]。 日本では、自分の経歴をジャーナリストと語っていたが、日本以外でジャーナリストの経験はまったくなく、アメリカではデパートのセールスマンをしていた[8]。 金学俊(ソウル大学教授)や重村智計によると、コンデは著書『朝鮮戦争の歴史』において、朝鮮戦争は韓国による北朝鮮侵略という「北侵説」を主張して、共産主義・社会主義の北朝鮮を支持する或いはシンパシーを持つ日本及び韓国の左翼・革新研究者の韓国による北朝鮮侵略説の最大の根拠となったが [9]、信夫清三郎がコンデの誤りを詳細に批判した[10][11]。 来日の経緯コンデは高等教育を受けずに独学で日本問題を研究し、専門家となった[12]。第二次大戦中は米軍の軍属としてマッカーサーの元で戦時情報局心理戦部(PWB)に従事、日本軍向けの心理戦としてリーフレット作成や新聞・ラジオ報道を行った。1945年9月、米軍とともに日本に上陸し、情報将校ボナー・フェラーズの命で心理戦の効果を確認する仕事に就く。1945年10月に民間情報教育局へ移籍[13]。 映画の検閲1945年11月、コンデは「民主主義映画の製作を促進」するため十三項目にわたる製作禁止条項を発表。日本映画は企画、脚本段階で事前検閲を受け、審査で認可を受けたのち製作を開始するようになり[14]、岩崎昶、亀井文夫ら左派映画人と共に映画の民主化を進めた[13]。これにより時代劇は著しく制限されて、歌舞伎の演目にも規制が掛かった。一方で検閲当局は日本人の生活習慣に無知だったため、キスシーンを描いた接吻映画が氾濫した[15]。
映画『日本の悲劇』の上映禁止と更迭1946年8月、コンデはGHQの労働課長セオドア・コーエンと共に映画『日本の悲劇』(監督 岩崎昶)を企画した。この作品は戦前・戦中のニュース映画を亀井文夫が編集して再構成したものだが、その内容はモンタージュ理論を駆使して天皇の戦争責任を追及するものだった。GHQは占領政策の遂行に天皇制の存続が必要と考えていたため内部で問題になり、『日本の悲劇』は上映が禁止される。コンデは責任者として参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーの取り調べを受け、映画課長の職を追われるに至る[16]。 1969年、社会評論家の松浦総三は自著でコンデ退陣の背景に、民間情報教育局(CIE)と民間検閲局(CCD)の間に日本の占領政策をめぐる対立があったという見方を示した。映画脚本の事前検閲を行ったCIEにはコンデを筆頭に急進的なニューディール主義者が多く、上映許可を出すCCDには保守的な軍人が多かった。コンデの追放はGHQが赤狩りに向かう転換点だったと解説した[17]。 著書
脚注
参考文献
関連書
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