テレボーウリャ
テレボーウリャ(ウクライナ語: Теребовля)は、ウクライナ・テルノーピリ州テレヴボーウリャ地区(uk)の行政中心地となっている市(Місто)である。セレト川支流のフニズナ川(uk)に面する[3] 。市の日(uk)は7月7日。 歴史テレボーウリャには新石器時代期に既に人々が住んでいた。史料上の初出は『イパーチー年代記』の1097年の記述であり、その時点ではテレボヴリと呼ばれていた[4]。街はハルィチナー地方における最も古い都市の1つである[3] 。また、11世紀末よりテレボヴリ公国の首都となった。 街は1349年にポーランド王国に組み込まれた[5]。1389年にはマグデブルク法を採用した。14世紀末以降になると、ポーランドの前線の要塞としてテレボーウリャ城が築かれた。ポーランド人とクリミア・タタール人・オスマン・トルコとの戦闘(対タタール:1453年、1498年、1508年、1516年。対トルコ:1675年、1688年。)の中で、城は何度か破壊されている。 1594年、街はポーランドに対し反乱を起こしたウクライナ・コサックのセヴェルィーン・ナルィヴァーイコによって占領された。1648年から1654年にかけてのフメリニツキーの乱では、ポーランドに対するウクライナ側の拠点の1つとなった。また、1672年から1676年にかけてのポーランド・トルコ戦争(ru)の最中の1675年にはオスマン・トルコ軍による包囲(ru)を受けている。 1772年の第1次ポーランド分割からオーストリア=ハンガリー帝国の領土となった[5](なお1890年の時点で人口は3735人[3])。1918年 - 1919年には西ウクライナ人民共和国の領域となったが、同国の消滅とともに、1939年まで再びポーランド領、のちにウクライナ・ソビエト社会主義共和国領となった[5]。なお、旧称のトレンボウリャ(Трембовля / Trębowla)はポーランド語に由来する。この名称は1944年まで用いられていた[1]。
行政テレボーウリャの評議会は、テレボーウリャ市とボルィチフスカ村(uk)から成り立っていた。しかし2007年11月4日の投票で有権者の大多数が分離に賛成したため、ボルィチフスカ村独自の村評議会(シリシカ・ラーダ(uk))が発足した。分離以前(2006年調査)の両行政区を合わせた人口は14,005人であった。そのうちテレボーウリャ市に13,455人、ボルィチフスカ村に550人が住んでいた。なお、1975年の人口は11,600人[5]、1990年の人口は13,600人[1]だった。 出典
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