チャールズ・ジェラード (第2代マクルズフィールド伯爵)第2代マクルズフィールド伯爵チャールズ・ジェラード(英語: Charles Gerard, 2nd Earl of Macclesfield、1659年頃 – 1701年11月5日)は、イングランド王国の政治家、軍人、貴族。1679年から1694年までブランドン子爵の儀礼称号を使用した。 生涯初代マクルズフィールド伯爵チャールズ・ジェラードとジェーン・ド・シヴェル(Jane de Civelle、ピエール・ド・シヴェルの娘)の息子として、1659年頃にパリで生まれ、1677年に議会の議決によりイングランドに帰化した[1]。 最初は大コンデの下でフランス軍に従軍したが、1678年に中佐として父の乗馬連隊に入隊、1679年6月に大佐に昇進した[2]。1679年3月、1679年10月、1681年の総選挙でランカシャー選挙区での連続当選を果たし、また宮廷からの厚遇にもかかわらずホイッグ党員になり、さらに初代モンマス公爵ジェイムズ・スコットとも親しい間柄になった[2]。チャールズ2世は1679年にジェラードの父をマクルズフィールド伯爵に叙したが、父子2人の支持を得るには至らなかった[2]。 1683年のライハウス陰謀事件では一時ロンドン塔に投獄されたが、結局証拠が見つからなかったため釈放された[2]。1685年3月に妻と別れ、その事情が明るみに出てジェラードが評判を落とした上、同月の総選挙で敗北、さらにモンマス公爵の反乱に加担した疑いで11月に再び投獄された(ジェラードの父は海外逃亡した)[2]。ジェラードは最初は死刑判決を受けたが、後に執行が猶予され、1687年8月には恩赦された[2]。これによりジェラードはジェームズ2世を支持したが、父はウィリアム3世を支持して1688年11月にウィリアム3世とともにイングランドに上陸、ジェラードは情勢判断を誤ってジェームズ2世への支持を表明した[2]。ジェラードは後にウィリアム3世に手紙を書いて理由を説明、1689年イングランド総選挙で再びランカシャー選挙区から出馬して当選した(ただし、ジェラードがランカスター選挙区で推薦した候補は落選した)[2]。同年6月に第9代ダービー伯爵ウィリアム・スタンリーが引退すると、その後任としてランカシャー統監を務め[2]、1691年3月9日にはチェシャー副提督およびランカシャー副提督に任命された[3]。以降は1690年末から1691年初にかけて一時的に野党に回ったほかは宮廷を支持し続け[4]、1694年1月7日に父が死去するとマクルズフィールド伯爵の爵位を継承、24日に貴族院議員に就任した[1]。1694年に少将に昇進[4]、6月のブレスト遠征にも参加した[1]。 1696年に北ウェールズ統監に任命され[1]、1700年6月20日にモンゴメリーシャー首席治安判事に任命された[5]。 1701年夏、ハノーファー選帝侯領への使節に任命され、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のグレートブリテン国王ジョージ1世)にガーター勲章を授与(8月4日)、1701年王位継承法で定められた王位継承者ゾフィー・フォン・デア・プファルツに王位継承法の写しを提出した[1]。秋には帰国していたが[4]、同年11月5日に死去、14日にウェストミンスター寺院に埋葬された[1]。嫡子がいなかったため弟フィットンが爵位を継承した[1]。遺言状で遺産を第4代ムーン男爵チャールズ・ムーンに譲ったが、第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトンと弟フィットンがそれぞれ裁判を起こして争い、1712年11月にハミルトン公爵とムーン男爵の決闘が起こって両者ともに死亡することとなった[4]。 家族1683年6月18日、アン・メイソン(Anne Mason、1673年頃 – 1753年10月11日、サー・リチャード・メイソンの娘)と結婚した[1]。アンは1男1女を出産したが、2人の子供の本当の父は第4代リヴァーズ伯爵リチャード・サヴェージ(1712年没)とされ[1]、2人は1695年に別居した後[4]、議会の議決を得て1698年4月2日に離婚、アンの子女2人は非嫡出子とされた[1]。
2人が離婚した後、アンは1700年頃にヘンリー・ブレット(1724年没)と再婚、娘マーガレッタ(Margaretta、ジョージ1世の愛人)をもうけた[1]。 出典
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