チャド・ビリングズリー
チャド・ライアン・ビリングズリー(Chad Ryan Billingsley、1984年7月29日 - )は、アメリカ合衆国・オハイオ州ディファイアンス出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。現在はフリーエージェント。 経歴プロ入り前ビリングズリーは2002年にシェルブルックで行われたIBAF世界ジュニア選手権で3試合に投げ3勝0敗・防御率2.45という成績でアメリカ代表の銅メダル獲得に貢献[1]、デファイアンス高校時代の2003年には11試合で6勝1敗、防御率1.49で113奪三振という成績を残す。また56回を投げ四球は16個だった。 ドジャース時代2003年のMLBドラフトでロサンゼルス・ドジャースから1巡目(全体24番目)指名を受け、137万5000ドルで契約。ドラフト指名後、ルーキーリーグのオグデン・ラプターズで投げ5勝4敗・防御率2.83の成績でプロ1年目を終えた。 2004年はA級ベロビーチ・ドジャースに昇格し7勝4敗、防御率2.35。 2005年はAA級ジャクソンビル・サンズで13勝6敗・防御率3.51だった。 2006年シーズン開幕前にベースボール・アメリカ誌は、ビリングズリーをドジャースの最高若手有望株と評価した[2]。同年、AAA級ラスベガス・フィフティワンズで開幕を迎え、6月15日、ペトコ・パークでのサンディエゴ・パドレス戦でメジャーリーグデビュー。5.2回を投げ6安打、3奪三振、2失点という内容だった。またこの試合では初めての打数で2点タイムリー安打を放ち(初打席は死球)、自らの負けを消した。結局この試合はドジャースが7対3で勝利したがビリングズリーには勝利は付かなかった。この年は18試合(うち16先発)に登板して7勝を挙げた。 2007年の開幕時はブルペンで迎えることとなった。しかしジェイソン・シュミットが故障者リスト入りしたため、6月21日からは再び先発に回ることとなり[3]、規定投球回未満ながら12勝を挙げた。 2008年は開幕から先発ローテーションを任され、7月30日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では5安打、8奪三振、1四球という内容で自身初の完封勝ちを記録した。この年は200.2回を投げ16勝10敗、リーグ5位となる201奪三振、防御率3.14を記録した。9月6日にはアリゾナ・ダイヤモンドバックスのブランドン・ウェブと投げあい、ビリングズリーは14勝目を挙げ、この勝利でドジャースは地区首位に浮上しそのまま地区優勝を果たした[4]。ポストシーズンでは3試合に先発し、初先発となったシカゴ・カブスとのディビジョンシリーズ第2戦では、6.2回を1失点に抑え勝利。しかし残る2試合ではフィラデルフィア・フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズの第2戦で2.1回を投げ8失点(自責7)で敗戦投手となり、第5戦でも2.2回を3失点と活躍を見せることが出来なかった。 シーズンオフの2008年11月21日にレディングの自宅郊外で氷の上で転倒し腓骨を骨折した[5] 。しかし、春季キャンプ開始までに回復し大事には至らなかった。 2009年は開幕から5連勝を記録し、オールスターに初めて選出された。しかし、閉幕にかけて5連敗でシーズンを終え、プレーオフでは先発から外れ、リリーフとして起用された[6]。 2010年は31試合を投げ、前年と同じ12勝11敗でシーズンを終えた。 2011年のスプリングトレーニング期間内に総額3500万ドルの3年契約を結んだ。6月5日のシンシナティ・レッズ戦で自身初の本塁打をトラビス・ウッドから放った。 2012年7月7日のダイヤモンドバックス戦で通算1000奪三振を記録。9月5日に肘関節の尺側側副靱帯損傷のため残りのシーズンを休養に回した。本来トミー・ジョン手術で治療する怪我だったがビリングズリーはPRP療法を選択し、手術を回避した。 2013年のスプリングトレーニングでは右肘の違和感なく過ごしていたが、4月19日に右肘の圧迫感・痛みを訴え、4月20日にMRI検査で靭帯の損傷が明らかになり、翌日故障者リスト入りした。4月24日にトミー・ジョン手術を受け、2013年の残りシーズン全てをリハビリに費やすことになった[7]。 2014年は、プレーする事は無かった。オフに契約オプションを破棄され、10月30日にFAとなった。 フィリーズ時代2015年1月29日にフィリーズと1年150万ドルで契約を結んだ[8]。フィリーズでは2年ぶりにメジャーのマウンドに登り、7試合に先発登板した。しかし、防御率5.84・2勝3敗・WHIP1.65という成績に終わり、往年の実力を取り戻す事は出来なかった。同年11月2日にFAとなった[9]。 選手としての特徴
詳細情報年度別投手成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
|