ダンカン・エドワーズ
ダンカン・エドワーズ(Duncan Edwards、1936年10月1日 - 1958年2月21日)は、イングランド・ダドリー出身のサッカー選手。 「ミュンヘンの悲劇」の犠牲者のひとりとして知られ、イングランドのサッカー史では夭折の天才選手として語られている。 人物1952年10月1日、16歳の誕生日にイングランドのマンチェスター・ユナイテッドと契約。クラブの若い世代からの底上げを図るマット・バスビー監督に見出された少年は、契約から半年後の1953年4月4日、対カーディフ・シティ戦でデビューを飾った。 その2年後のシーズンには、18歳にしてクラブの中心選手として活躍、若さに似合わぬ精神力とキャプテンシーでチームを牽引した。バスビー・ベイブス(Busby Babes, バスビーの子ども達)と呼ばれた、エドワーズを擁するこの若いチームは、1955-56シーズンからリーグ2連覇を成し遂げている。 クラブでの活躍が認められ、1955年4月2日の対スコットランド戦にイングランド代表として初出場。18歳と138日で代表デビューという最年少記録は1998年に「ワンダー・ボーイ」マイケル・オーウェン(リヴァプールFC=当時)が塗り替えるまで、43年も破られなかった。 エドワーズが主に担当したポジションは左のサイドハーフ。ただし当時は前線にフォワードを5人並べる戦術が主流であり、サイドハーフはどちらかと言えば守備的なポジションである。しかしエドワーズは強力なキック力を生かし、ペナルティエリア外からのミドルシュートでゴールを決めることを好んだという。彼の強烈なシュートは大砲の弾丸に喩えられ、「Boom Boom」(ブーム・ブーム、大砲の砲撃音を表す)の異名をとった。 突然の死次代を担う若き天才として将来を嘱望されていたエドワーズだったが、その希望は突然無残に打ち砕かれた。1958年2月6日、UEFAチャンピオンズカップで遠征していたベオグラードからの帰路の途中、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機が給油の為に経由したミュンヘン・リーム国際空港を出発しようとする際に離陸に失敗してオーバーランし、近隣の住宅に激突し大破。同機に乗っていたエドワーズを含むユナイテッドの選手たち、および監督をはじめとするクラブ関係者が事故に巻き込まれた(事故についてはミュンヘンの悲劇を参照)。 この事故でエドワーズは瀕死の重傷を負い、すぐさま病院に収容。驚異的な体力で2週間余り闘い続けたが、2月21日早朝、ついに力尽きた。21歳の若さで死亡したキャプテンは、うわ言で最期まで次の試合のことを心配していたという。 エドワーズのマンチェスター・ユナイテッドの後輩に、ボビー・チャールトンがいる。チャールトンは一時大きな精神的ショックを受けたものの、エドワーズら亡き後のクラブをキャプテンとして牽引し、その後のユナイテッド、そしてイングランド代表の黄金時代を築いた。チャールトンはエドワーズについて「私が唯一劣等感を抱かされたプレイヤー」と賞している。 ダンカン・エドワーズの実働期間はわずか5年弱であった。国内リーグ戦150試合出場・20得点、イングランド代表として18試合出場・5得点。存命ならば代表100試合出場は軽く超えていたであろうと言われている。 1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で46位に選出された。 個人成績
実際は出場する予定の試合もあった 出典
外部リンク |