ダビド・ムジリ
ダビド・ムジリ(グルジア語: დავით მუჯირი、グルジア語ラテン翻字: David Mujiri、1978年1月2日 - )は、ジョージア(グルジア)・トビリシ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 現在はジョージアサッカー連盟(GFF)事務局長。 来歴父親のダビド・ムジリ・シニアは1970/80年代ソ連リーグのFCディナモ・トビリシ黄金期のメンバーでDFとして活躍した[1]。 1995年に、ジョージア(グルジア)のFCディナモ・トビリシにおいて17歳でプロデビュー。1997/98シーズンのリーグ優勝に貢献。1998年に初めてジョージア(グルジア)代表に選出、年代別代表ではキャプテン[1] を務めた。カハ・カラーゼは同い年であり当時の代表およびディナモのチームメイトであった。 1999年、ディナモは混迷を極め自身も出場機会が得られなくなった[1]。五輪代表でキャプテンを務めていたムジリはナーバスになり出場機会を求めて[1]、FCロコモティフ・トビリシ、モルドバのFCシェリフ・ティラスポリへ移籍する。2000/01シーズンにはモルドバリーグ優勝に貢献、自身も得点王を獲得した。 2001年から在籍したオーストリアのSKシュトゥルム・グラーツでは、イビチャ・オシムやミハイロ・ペトロヴィッチ[2] らの下で主力として活躍し、ジョージア(グルジア)代表にも定着。 2006年からロシアのクリリヤ・ソヴェトフ・サマーラでプレーする。2007年はクリリヤ・ソヴェトフでチームキャプテンを務めた[3]。2008年1月30日にFCロコモティフ・モスクワが3年契約での移籍を発表、この際ロコモティフが契約切れによる移籍金ゼロでの移籍を狙ったが、クリリヤ・ソヴェトフとは1月末契約で事前通告がなかったことから、選手登録をめぐってトラブルが発生した[4]。2009年末、稼働率の悪いムジリに対しロコモティフ側は一方的に解雇、これに怒ったムジリはロコモティフを訴えた[5]。 2010年に古巣のディナモ・トビリシに復帰したが、シーズン途中に半年で退団[6]。フリーになっていたところを、グラーツ時代の恩師・ペトロヴィッチが率いるサンフレッチェ広島からの誘いを受け来日[6]。キャンプでのトライアルを経て[6]、2011年シーズン開幕直前の2月に1年間の正式契約を結んだ[2]。ジョージア(グルジア)国籍の選手としては初のJリーガーとなる[7]。運動量こそ少なかったが、エリア内で抜群のテクニックを発揮し得点を挙げた[8]。常にサポーターへの感謝を口にする人柄も含め、短期間の在籍ながらも愛される存在であった。同年末、広島の経営難を理由に構想外となった[9]。 2012年、ジョージア(グルジア)リーグで首位を走るFCゼスタポニに完全移籍し[10]、同年度のリーグ優勝に貢献した。翌2012-13シーズンも在籍していたが、シーズン途中にUEFAチャンピオンズリーグ 2012-13での早期敗退やリーグ戦での不調により監督が次々と変わる中で、2012年9月からZaza Zamtaradzeとの二頭体制の形で監督に就任したものの同年12月に解任された。 その後はサッカー解説者などを経て、FCサムトレディアのスポーツディレクターに就任[11]。 2015年10月にレバン・コビアシビリのジョージアサッカー連盟会長就任を受けて、その事務局長に就任した[11]。 個人成績
代表歴
試合数
タイトル
ギャラリー
脚注
関連項目外部リンク
|