ダグ・ジェニングス
Doug Jennings基本情報 |
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国籍 |
アメリカ合衆国 |
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出身地 |
アメリカ合衆国・ジョージア州アトランタ |
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生年月日 |
(1964-09-30) 1964年9月30日(60歳) |
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身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 195 lb =約88.5 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
一塁手、外野手 |
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プロ入り |
1984年 MLBドラフト2巡目 |
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初出場 |
MLB / 1988年4月8日 NPB / 1995年4月1日 |
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最終出場 |
MLB / 1993年9月26日 NPB / 1997年4月18日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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ジェームス・ダグラス・ジェニングス(James Douglas Jennings、1964年9月30日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
日本での登録名はイニシャルのD・J。
経歴
1984年の1984年のMLBドラフト2巡目でカリフォルニア・エンゼルスに指名され契約。
1988年にオークランド・アスレチックスでメジャーデビュー。
1993年にシカゴ・カブスでメジャー再昇格。メジャーには定着できなかったものの、1994年には3Aインディアナポリスで打率.296、23本塁打、92打点を記録した。
1994年11月16日、NPBのオリックス・ブルーウェーブに入団。来日の理由について『週刊ベースボール』のインタビューで「区切りと考えていた30歳になったタイミングでオリックスから話が来たから」と明かしている[1]。1995年開幕当初は不調だったが、新井宏昌打撃コーチと中西太ヘッドコーチの指導で変化球に対応できるようになると7月に打率.393と成績を伸ばし、12本塁打のトロイ・ニールを抑え月間MVPを獲得。8月も打率.337、8本塁打で2か月連続で月間MVPを獲得した。8月8日から9日にはプロ野球タイ記録となる4打席連続本塁打を放つ。この年、打率.266、16本塁打、60打点でチームの優勝に貢献。日本シリーズでも、チームが唯一勝利した第4戦で、延長12回表に伊東昭光から決勝ソロ本塁打を放った。
1996年は成績が下がったが、本拠地・グリーンスタジアム神戸での優勝を決めた9月23日の対日本ハムファイターズ戦では9回裏、2死無走者から代打で登場し、島崎毅からライトスタンドへ起死回生の同点本塁打を放ち、その次の回のイチローのサヨナラ二塁打での優勝を演出した。オフに解雇が検討されたが、大幅な年俸ダウンで残留が決まった。
1997年はクリス・ドネルスの加入もあり、外国人枠の関係でシーズンの大半を二軍で過ごし、9月10日に帰国しそのまま退団した。5月にマイク・グリーンウェルが退団し外国人枠に空きがあった阪神へ行きたかったが、オリックスが出してくれなかったとも語っている[1]。
帰国後は、独立リーグ、マイナーリーグ、リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルで所属を行き来しながら2005年までプレーした。
現在はマイアミ近郊に住み、少年野球の指導などをしている。
2013年4月12日、オリックス対日本ハム戦(ほっともっとフィールド神戸)の試合前に始球式を行った[2]。
2015年6月13日、マイアミ・マーリンズの本拠地を訪れ、オリックス時代のチームメイトだったイチローと十数年ぶりに再会した[3]。
人物・逸話
外野手登録であるが、日本では大半は一塁手として起用された。中西太曰く、「守備は下手くそやったけど、勝負強かった」。
日本プロ野球史上初めて、姓名のイニシャルを登録名とした選手で、これは当時オリックス監督の仰木彬の発案による。「D・J」は小さい頃から家族や友達から呼ばれていた愛称で、新入団の年の春季キャンプで初対面したイチローから「本当にDJの人だと思った」と勘違いされた。当時西武にもニックネームが「D・J」のダリン・ジャクソンがいたが、「ライバル意識は?」という質問に対し「彼はD・Jで登録されていないんだろ。だったら特別意識はしないね」と答えている[1]。
プロ野球タイ記録となる4打席連続本塁打を達成したのは1995年8月8日・9日の近鉄戦(ナゴヤ球場)で、8日の試合で清川栄治から8号、佐野重樹から9号、デニス・パウエルから10号、翌9日の第1打席で江坂政明から11号本塁打を打ち達成した。次の打席はライトへの安打に終わり、史上初の5連発はならなかった[4]。
1996年5月29日の試合でストライク、ボールの判定を巡って球審の佐藤純一に「NO」と抗議したところ、突然退場を宣告された。この宣告は不可解なものであり、同年の珍プレー番組でも取り上げられた。
2013年9月22日放送の「世界の果てまでイッテQ!」で、出川哲朗がイチローの背面キャッチに挑戦する企画の際に、コーチとして登場した[5]。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1988
|
OAK
|
71 |
128 |
101 |
9 |
21 |
6 |
0 |
1 |
30 |
15 |
0 |
1 |
1 |
3 |
21 |
1 |
2 |
28 |
1 |
.208 |
.346 |
.297 |
.643
|
1989
|
4 |
4 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
.000 |
.000 |
.000 |
.000
|
1990
|
64 |
180 |
156 |
19 |
30 |
7 |
2 |
2 |
47 |
14 |
0 |
3 |
2 |
3 |
17 |
0 |
2 |
48 |
1 |
.192 |
.275 |
.301 |
.577
|
1991
|
8 |
11 |
9 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
2 |
1 |
.111 |
.273 |
.111 |
.384
|
1993
|
CHC
|
42 |
57 |
52 |
8 |
13 |
3 |
1 |
2 |
24 |
8 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
2 |
10 |
0 |
.250 |
.316 |
.462 |
.777
|
1995
|
オリックス
|
107 |
372 |
335 |
44 |
89 |
22 |
1 |
16 |
161 |
60 |
2 |
1 |
0 |
6 |
27 |
2 |
4 |
104 |
7 |
.266 |
.323 |
.481 |
.803
|
1996
|
91 |
278 |
241 |
29 |
53 |
7 |
1 |
15 |
107 |
47 |
1 |
1 |
0 |
1 |
32 |
0 |
4 |
74 |
5 |
.220 |
.320 |
.444 |
.764
|
1997
|
9 |
31 |
25 |
2 |
6 |
1 |
0 |
1 |
10 |
3 |
1 |
0 |
0 |
0 |
5 |
0 |
1 |
6 |
0 |
.240 |
.387 |
.400 |
.787
|
MLB:5年
|
189 |
380 |
322 |
36 |
65 |
16 |
3 |
5 |
102 |
37 |
0 |
5 |
3 |
6 |
43 |
1 |
6 |
90 |
3 |
.202 |
.302 |
.317 |
.619
|
NPB:3年
|
207 |
681 |
601 |
75 |
148 |
30 |
2 |
32 |
278 |
110 |
4 |
2 |
0 |
7 |
64 |
2 |
9 |
184 |
12 |
.246 |
.325 |
.463 |
.787
|
表彰
- 月間MVP:2回(1995年7月、1995年8月)
記録
NPB
- 初記録
- その他の記録
- 4打席連続本塁打:1995年8月8日 - 翌9日 ※史上12人目、歴代2位タイ[6]
- 4打数連続本塁打:同上 ※史上15人目16度目、歴代2位タイ[6]
背番号
- 48(1988年)
- 21(1988年 - 1989年)
- 2(1990年)
- 13(1991年)
- 53(1993年)
- 24(1995年 - 1997年)
登録名
関連項目
脚注
外部リンク