タイラー・リー・バンバークレオ
タイラー・リー・バンバークレオ(Tyler Lee Van Burkleo, 1962年10月7日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。左投左打。 MLBでの登録名は、タイ・バンバークレオ(Ty Van Burkleo)。 経歴プロ入りとブルワーズ傘下時代1981年にミルウォーキー・ブルワーズと契約してプロ入り。 エンゼルス傘下時代1984年8月4日にカリフォルニア・エンゼルスと契約した。 1987年6月2日にエンゼルスとの契約を解除となった。 西武時代1987年シーズン途中に西武ライオンズに入団した。長身に加え、甘いマスクで、家族共に日本入りした姿が野球ファンの間で話題になった。登録名は最初はバンバークレオであったが、すぐにバークレオに変更されている(背ネームはVAN BURKLEOのまま)。 西武入団1年目は外国人枠の関係もあり二軍で過ごした。 1988年は認められ、一軍の5番に定着して打ちまくり、満塁本塁打4本を含むチームトップタイ38本塁打を放ち、チームのリーグ優勝・日本一に貢献(なお、2年目までの推定年俸は当時のレートで700万円と格安であった)。3番・秋山幸二、4番・清原和博の後を打ち、3人はAKB砲といわれた[1]。この3人で100本以上の本塁打を打ち、他球団から恐れられた。中日ドラゴンズとの日本シリーズ第5戦では初回に小野和幸から2点適時打を放っている。 1989年以降は変化球攻めに苦しみ低打率となり、監督の森祇晶は新加入したスイッチヒッターのオレステス・デストラーデを起用するようになる。桁違いの飛距離を誇るにもかかわらず、当時は外国人は一軍登録2人制のため(エース級の郭泰源もいた)再び二軍生活を余儀なくされた。ただし1990年夏、郭が右肘痛で抹消されると一軍に昇格。AKBD砲の一角として9本の本塁打を記録、イースタン・リーグでは本塁打王を獲得するなど活躍したが、この年限りで西武を退団した。 当初西武での応援歌の原曲は、名前にちなんだ「歌えバンバン」だった。しかし、1990年に秋山幸二と清原和博以外の全員の応援歌が作り直され、バークレオにも新曲が作られたが、こちらはあまり歌われる機会のないままに終わっている(後にブライアン・ラービーに流用されたが、彼もまた1年通しての活躍はできなかった。その後は関西地区限定で髙木大成に流用された)。 広島時代小早川毅彦とポジションを争い、開幕戦こそ「5番・一塁手」で先発出場を勝ち取るも故障もあって低迷した。チームはリーグ優勝を果たしたが、自身はその輪に入れず1年で退団した。 エンゼルス時代1992年にエンゼルスと契約した。 1993年7月28日のオークランド・アスレチックス戦(アナハイム・スタジアム)で「7番・一塁手」としてメジャーデビューを果たす。8月3日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で、8回裏にスタン・ベリンダからメジャー初安打となる二塁打を放った。8月16日のデトロイト・タイガース戦では、メジャー唯一の本塁打を同じくNPB経験者であるビル・ガリクソンから放っている。 ロッキーズ時代1994年はコロラド・ロッキーズでプレーした。 エンゼルス傘下復帰1996年にエンゼルス傘下(当時)のA+級レイクエルシノア・ストームでプレーしたのを最後に引退。 引退後引退後、1997年からエンゼルスやアリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーで打撃コーチなどを務めた。2007年から2008年までオークランド・アスレチックスの打撃コーチを務め、2009年からはシアトル・マリナーズのベンチコーチに就任した。しかし、2010年8月9日にチームの成績不振のため、監督のドン・ワカマツと共に解任された。 2012年にヒューストン・アストロズ傘下のマイナーチームにて打撃コーチに就任したが、8月19日に解任されたマイク・バーネットに代わる暫定の後任コーチとしてアストロズの打撃コーチをシーズン終了まで務めた。 2013年からはクリーブランド・インディアンスの打撃コーチに就任し、2021年まで務めた[2]。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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